2021年12月31日

新黄禍論

「宮崎市定全集 16 近代」 より

黄禍か 白禍か P154〜

 「日清戦役において、日本が清朝を破って勝利を得、講和条約において遼東半島の割譲を認めさせたあと、ロシア・フランス・ドイツ三国干渉によって、その権利を放棄した次第は前巻に述べた。ところがちょうどこの前後、当のドイツ皇帝が、黄禍論なる寓意画を工夫し、画家に描かしめて、それをロシア皇帝に贈った。この絵は、東方に炎々ともえたつ焔の中に、龍の背に座した仏陀があり、暗黒の大雲に巻かれながら西方に突進しようとする気配を示し、これに対して防禦の構えをなす一団の西洋婦人が、巌の上に集まり、その先頭には両翼をはやした天使が立って、なにごとかを指示している模様である。これは疑いもなく、黄色人種がやがてヨーロッパに侵入しようとする危険あるを予告し、キリスト教国は団結してこれに対抗せねばならぬという意味を寓しているのであって、先頭に立っている天使は、ドイツ国民を象徴するがごとく思われる。

 ドイツ皇帝がなぜこんなことを思いついたかについては、いろいろうがった推測を下すものがあった。かれはロシアの注意をなるべく東方のアジアに向けさせ、動きの取れぬように釘付けにしておいて、その間に自己のヨーロッパにおける地位を強化しようという、遠大な策謀に基づくものだという説もある。これによると、かれが三国干渉の直後、わずか二名の自国宣教師が中国で殺害されたからという理由で、堂々と艦隊を送って青島を占領し、そこに租界を獲得し、山東鉄道敷設権を得たのは、ロシアにも、もっと大胆に中国で行動しなさい、といわんばかりに、みずから模範を示したのだという。はたしてロシアがこの策謀にかかって、日本から返還させたばかりの旅順・大連を租借して日本の恨みを買い、日露戦争によって敗北を喫したので、ドイツ皇帝は手を叩いて喜んだとか。

 ところが日本がロシアに戦争で打ち勝つと、これは予想外に大きな衝撃を世界各地に及ぼした。これまでは白人の絶対的優勢のうちに世界の形勢が進行し、アジアもアフリカもアメリカも、ことごとく白人国家の植民地、ないしは半植民地にされてしまった。有色人種はとうてい白人には勝つことができぬと、あきらめてしまっていた有色人種は、ここで一度失った自信をとりもどしたのである。このころから、当時は活動写真とよばれた映画が流行しだし、日露戦争の光景が仕組まれてアジア各地で上演され、植民地土着民の間で大歓迎を受けた。かれらはしだいに民族的な自覚をもつようになり、以前のように征服者に対して卑屈ではなくなってきた。

 それにつれて薄気味悪くなったのは、イギリス・フランス・オランダなどの植民国家である。これまでアジアにおいてさんざん横暴を働いていたので、今度はその復讐をうける順番がきはせぬかと恐れるようになった。そしてこういう場合、よく起こりやすいのは加害者のほうがおこす被害妄想である。そこで改めて黄禍論が、前代とはちがった真剣さをもって討議されるようになった。」

posted by Fukutake at 09:15| 日記