「考える人」 季刊誌 2010年 秋号 No.434 新潮社
万物流転 養老孟司
革命について p131〜
「…歴史では、個々の事象は偶然に起こる。しかしそれが時代に合う、つまり他の偶然の事象とぶつかると、さまさまな思わぬ結果が生じる。事故の解析の結果もそれを支持する。偶然の不幸が重なり合うと、大事件を結果するのである。これは生物の変異が「偶然に」生じ、それが環境と相互作用して進化が起こるという説によく適合する。その種の歴史の書き方をした最近の本を読むと、歴史学もやっと生物学に近づいたなあと感じる。だから進化論がイデオロギー的だったというのは、逆によくわかる。それは歴史問題だったからである。…
日本の軍部に「悪を措定する」必要はない。貧乏人の子弟をあんな組織に放り込んじゃいけなかったのである。
中国の古典文化には感心すべき点が多い。歴史問題が典型である。前王朝の正史を決定するのは、後継の王朝である。どうせ過去の話は不明瞭で、どう決めたって問題が生じる。それなら歴史を決定する最終的な権限は、現政府に属する。それが「政治権力というもの」の一つの内容なのである。だから南京大虐殺三十万人と「政府が決めた」ので、それに反対するのは、要するに反政府である。
ただしその解釈は善悪の因果論に基づいている。だから侵略してきた日本帝国主義に勝利したことが、現在の中韓朝三国政府の正当性である。そういう理屈にならない理屈をいうから私は政治が嫌いで、その点では日本政府はまだマシである。べつにさしたる正当性を主張しないからである。ただし選挙による民意なんてものは、私は必要悪だと思っている。そんな抽象的なもので、具体的な人生を左右されてはたまらない。そう思うからである。でも賛成者は少ないであろう。民主主義という「理念」と、選挙による多数という「実感」が結びついて、小沢になっている。
書いているうちに、なんだか危ない話になってきたなあと思う。だからやっぱり、進化論は生物学ではもめるのである。「進化なんて、そんな済んでしまったことを考えて、どうなりますか」。講義の後で、東大の秀才の大学院生にそう訊かれて、感心したことがある。残念ながら、この人はすでに亡くなった。そういう質問をする人は、歴史なんか考えないはずである。なにしろ「済んでしまったこと」なんだから。私の人生もほぼ済んでしまったなあ。なにをどういおうが、さして変わりはない。なるほど仕事に定年があるわけである。終わりが近づくと、結論はどうでもいいか、まあボチボチ、とこうなるに決まっている。だっていまから張り切ってみても、血圧が上がって、残りの寿命が縮むだけ。そう思えば、危険が多くても、若者に賭けるべきであろう。老いても大丈夫、まだ頑張れる。そう思っている人には悪いが、そりゃ間違いでしょ、というしかない。」-----
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