「日本の身体」対談 桐竹勘十郎 x 内田樹
『考える人』2010年冬号 No31より p150〜
「桐竹勘十郎 僕らも鳥肌の立つような舞台ってあるんです。でも次の日にもできるかというと、できない。一公演に一回あるかないかですけど、それをまた味わうために何年も何年もやるんです。初めてそれを感じたのは足遣いの時。おやじの足を遣っていたのかな、まだ若かったけど、ものすごく感動したんです。ああ、今日はすごかったと思って、それ以来、次はいつ「来る」んだろうって、毎日。
内田 日本の芸能は能でも歌舞伎でも文楽でも、演出家や指揮者痛いな人はいないでしょう。しかもいつの間にか始まっている。
桐竹 それもお稽古もせずにね。僕の姉も役者をやっていますが、やはりびっくりしますもの。「ようあんなん、稽古一日でやるなあ、厚かましい」って。でも僕は最近、冗談半分で稽古なんてしても無駄だから、って言っているんです。だって舞台稽古を何日やっても、ただ段取りのお稽古でしかない。初日も二日目も三日目も、舞台の上で起こることは違うんです。同じことを毎日毎日できることならびしっと稽古すればいいけれど、絶対無理。だから舞台稽古は繰り返さないんです。
内田 ものすごく上手な方と一緒に演じる場合、やりやすいということは?
桐竹 ありますね。先ほどの合気道のお話じゃないですが、もう、わかるんです。申し合わせをしていなくても、相手がこう来るな、というのがわかる。さういう方とは非常にやりやすいですね。
うちの師匠もものすごく段取りが嫌いで、常々「段取り芝居ほどつまらないものはない」とおっしゃっている。だからぶっつけ本番大賛成で、大まかな動きさえわかっていれば、あとは相手と対すればわかる、それが芝居やと。そういう師匠とある時、僕が斬る役、師匠が斬られる役という配役になったことがあるんです。それはもう毎日壮絶な戦いですよ。
井戸のまわりを、こっちは殺そうとして、向こうは殺されまいと逃げ回るんです。本当にリアルです。
他の組み合わせの時は、何回回って、ここで斬って、突いて、とか決めてやりはるんです。うちらは毎回やることが違うし、ものも投げてくるし、ホントにこいつ殺したろかなと思えるようになりますよ。
内田 ものを投げるんですか?
桐竹 僕には何を投げるとも言わないで小道具さんに言って用意しておくんです。それでこっちがコケた時に、用意しているものをぱあっとね。僕はおっとなるし。
内田 それは「いい芝居」ですよ。
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毎回ハラハラドキドキが面白い。