2021年12月26日

セポイの反乱

「歴史の目撃者」 ジョン・ケアリー編 仙名紀訳 朝日新聞社 1997年 セポイの大反乱 ーカウンポールの惨状 一八五七年七月二十一日
ハヴロック将軍救援軍士官(氏名不詳) p198〜

(デリーの東、メーラトで始まった反乱は、インド各地に広がった。カルンポール(現 カンプル。メーラトから四百キロ、ガンジス川の下流)では、現地を支配するナーナ・ サーヒブが(イギリス)守備隊全員を虐殺した。二百人の女性と子どもまでが、ビビカ ルと呼ばれる家のなかでめった切りにされて殺害されたのである。)

「私は、不幸な女たちが惨殺された家に向かうように命じられた。その家はカウン ポール・ホテルの並びにあり、ナーナ・サーヒブの住居だった。あれほどぞっとしたこと はない。あたり一面、血の海だった。決して、大げさに言っているわけではない。ブー ツの靴底が、あわれな人びとの血ですっかり隠れてしまうほどだった。衣服の切れ端 や襟飾り、子どもの靴下、女ものの丸いつばの帽子などが散乱していて、血を吸い込 んでいた。木の柱には刀傷があり、長い黒い髪がそこから垂れ下がっている。それ は、なんとも痛ましい光景だった。あの現場に行かずにすめば、どれほどよかったか と思うこともたびたびあるが、その一方でイギリス兵は一人残らずそこへ行って、自国 の女たちがどれほど残虐な行為を受けたかをその目で確かめるべきだ、と思うことも ある。彼らは殺されたあと引きずり出され、建物の外にある井戸に放り込まれた。井 戸からは、血まみれの手足が突き出ていた。...

哀れな女たちが虐殺されたのは七月十五日で、われわれが橋のところで現地の悪 党どもを殴りつけた後のことである。虐殺を命じた徴税官は一昨日、捕らえられ、道 路から百八十メートルほど入ったところの木の枝で吊るし首にされている。彼の死 は、きわめて痛ましいものだった。ロープの掛け方が悪かったため、落ちた時に輪の 部分があごのところで閉まった。ちょうど手の縄がほどけたので、彼はロープをつか み、逃れようとしてもがいた。だが二人の男が彼の足をつかんで、体をぐいと引っぱっ たので、首の骨が折れた。これも、彼の残忍さに対する当然の報いのように思えた。 (Anon.(’The Indian Mutiny; Scene of Massacre of British Women and Children at Cawnpore, 21 July 1857')Annual Resister,1857 )

イギリスのインド支配は苛酷をきわめたので、イギリスの東インド会社は編成してい たインド人傭兵(セポイまたはシパーヒー)が、まず一八五七年にガンジス川上流の メーラトで反乱を起こした。支配者イギリス人に対する鬱積していた怒りが爆発し、イ ンドの民衆はこれを契機としていっせいに立ち上がり、全民族的な第一次独立戦争と もよぶべき様相をみせた。イギリスは一年あまり後にようやくこの大反乱を鎮圧する が、これは植民地統治への大きな警鐘となった。 イギリス軍ハボック将軍の『年報』(一八五七年刊)から。」

列強植民地統治の実情
posted by Fukutake at 08:41| 日記