「笑う日本史」 伊藤賀一 KADOKAWA 2019年
織田信長 負けまくっても結果オーライ 信長が天下を手にかけられた理由は? p84〜
「織田信長は、本能寺の変で明智光秀に討たれてしまいますが、間違いなく天下に最も近づいた男。なので、連戦連勝、負け知らず… と思う人もいるかもしれませんが、じつは58勝19敗7分けの戦績。案外、負けまくっています。フィリピンやタイのボクサーみたいですね。
有名な負け戦といえば、1570年に越前国(現在の福井県東部)の朝倉義景と戦った金ヶ崎の戦い。敵の拠点をうち破り進撃しますが、義弟の浅井長政に裏切られ挟み撃ちに遭い、這う這うの体で撤退します。部下もかなり失いました。
1577年の手取川の戦いでは、越後国(現在の新潟県)の上杉謙信の倍近い戦力を有しながら、多くの戦死者・溺死者を出す大敗を喫しています。また、負けてはいませんが、浄土真宗(一向宗)の石山本願寺とは、11年間も対立を続けたあげく、結局は和睦。
そもそも、戦いの回数がほかの大名より多いから、負け数が多くなる。戦いの回数が多いとは、野球でいえば、試合数が多いということ。それに戦国・安土桃山時代って、甲子園みたいなトーナメント戦ではなく、プロ野球のようなリーグ線です。
信長が凄いのは、桶狭間の戦い(1560年)や長篠の戦い(1575年)など、「ここぞ」という戦いでは勝っていること。今川義元を破り、武田の騎馬隊を撃退すれば、天下に対するインパクトは絶大です。
負けが多いからって、信長の軍勢が弱かったわけではありません。信長は直属部隊としていつでも手足のように動かせる傭兵軍団を抱えていたとも言われています。普通、戦国大名の家臣というのは半ば独立しており、地元では殿様扱いされ、自分の領地を持っているものです。例えば、集合をかけても主君の居城に全軍が集まるのは3日後、なんていうのが当たり前です。武田信玄などはその典型でした。
一方、信長は直属部隊を従えているので、招集をかければ即座に態勢を整えられる。それは、戦力上も、重臣たちに対する抑制上も、非常に大きなことでした。この説も最近は否定の声も大きいですが、まあ誰もタイムスリップできないので、何とも言えないでしょうね。」
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