2021年11月30日

ワーグナー的世界の破壊

「性的變質から政治的變質へ −−ヴィスコンティ「地獄へ堕ちた勇者ども」をめぐって」 三島由紀夫  「三島由紀夫全集34」 新潮社 1975年

p373〜

 「久々に傑作といへる映畫を見た。生涯忘れがたい映畫作品の一つにならう。
 この荘重にして暗鬱、耽美的にして醜怪、形容を絶するやうな高度の映畫作品を見たあとでは、大ていの映畫は歯ごたへのないものになつてしまうにちがひない。

 ヴィスコンティは「夏の嵐」とほぼ同じ手法で、オペラ的演出の瑰麗を極めたものを示すが、あれがイタリー・オペラなら、これはドイツ・オペラであり、ワグナー的官能性が圧倒的に表現されてゐる。ワグネリアンは狂喜するに相違ない。日本でこれに匹敵するものを探すなら、わづかに市川崑の「雪之丞變化」があるだけであらう。

 冒頭の人物紹介は、落着いた悠々たるペースで進められ、この部分に「古き良きドイツ」が集約的に描冩されてゐる。それは厚味のある傳統的な文化(生活様式)の、視覺的音樂的な表現であり、立派な家長ヨアヒムを中心に、ブッデンブロークスの頽廃以前の一族の生活のやうなものが、簡潔に、きわめてよい趣味を以って、堂々と展開される。

 雪中の二人の不吉な客、アッシェンバッハとフリードリッヒの紹介によつて、またマーチンの女装の唄によつて、さらに、國會炎上のニュースによつて、最初の不協和音が介入して来る。晩餐の描冩は、なほ、豫感を内に孕みながら、イプセン劇のやうな正統派の室内劇の力強い劇的對立を、ほとんど教範的に示す。
 ふつうの劇的常識では、かうした性格、状況、野心、嫉妬、競争、權力、愛、その他の十分な設定は、劇的對立をレールに乗せ、心理劇や性格悲劇の十分な展開を豫想させるのである。なぜなら一定の高度の教養と富と文化的環境の設定は、教養ある悲劇をしか連想させないからである。もしある文化が滅びるんら、永い時間をかけて、その内的必然によつて瓦解する筈である。…

 おつとどつこい、さうは行かない。深夜突然、生の暴力が、この一族をまるでヤクザ一家の悲劇のやうな、色も香もない、實も蓋もない、直接的暴力悲劇の結末へ一氣に運んでしまふのである。生の、生粋の暴力の前に一瞬にして崩壊してしまうのだ。
 かくてこの劇を推進させる本當の力がはじめて露呈される。それこそナチスである。文化と文明の畫布を、何のためひもなく、一ト突きで破って突き出された「鐵拳」である。まるであるべきでないものがあり、起こるべきでないことが起こるといふ、この苛烈なコントラストに、ナチスの眞の特徴があつた。もし美しい座敷のまん中で糞をひることが公然と行なわれるにいたれば、全教養體系はあつけなく崩壊するのだ。…」
(<初出>映画芸術・昭和四十五年四月)

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いかにも凄惨な映画と記憶する。
posted by Fukutake at 08:27| 日記