「棚から哲学」 土屋賢二 文春文庫 2002年
デタラメな信じ方 p164〜
「わたしのことばは信じてもらえない傾向があるが、信じられることもある。不幸なことに、信じてほしくないときにかぎって、信じられてしまうのだ。たとえば「わたしは人に尊敬されたことがありません」というと、まず文字通りに信じられてしまう。むろん、わたしだって人から尊敬されたことはある。以前、「アンパンマンと友達だ」といって幼稚園児に尊敬されたことがある。
信じてほしくないつもりでいったことが信じられてしまうのは困ったものである。どうしてこうなるのか、よく分からないが、わたしに対する悪い先入観が根底にあるような気がする。たとえばわたしが「ピアノが下手です」というと、わたしの演奏を聞いたことがない人は、謙遜だろうと思って、わたしのことばを信じようとしないが、一度でも演奏を聞いたことがある人は、先入観をもっているため、例外なく、わたしのことばをそのまま信じてしまうのだ。
信じる・信じないを人はどうやって決めているのだろうか。わたしの例からも分かるように、人々は合理的な根拠に基づいて信じているわけではない。科学よりも占いを信じ、医学より民間療法を信じる人がいるし、宗教家の中には、「何の根拠もないから信じる」と考えている人さえいる。
だが、科学的な信念なら合理的といえるだろうか。人は納得できることしか信じないが、その「納得」そのものがいいかげんである。たとえば、地球の裏側にいる人が落下しないという事実は、小学生でも納得し、信じているが、考えてみれば、どうして納得できるのか不可解である。裏側にいる人が、磁石もないのに、なぜ地球にくっついていられるのか。かりに磁石で引きつけているのだとしても、接着剤を使うわけでもないのになぜ磁石はくっつくのか。かりに接着剤でくっついているとしても、接着剤も物体だ。物体と物体の間に物体を入れただけでどうしてくっつくのか。
ニュートンの万有引力の法則によって説明できる、といわれるかもしれないが、ニュートンの説明は結局のところ、「磁石や接着剤がなくても、物体は引っ張り合う。りんごも天体もみなそうだ」と主張しているだけだ。引力という現象そのものが納得できないのに、それが何の原因もなくあらゆる所で成り立っているといわれても、ますます納得できなくなるだけではなかろうか。一匹のゴキブリが怖いなら、ゴキブリを全部集めてもよけい怖くなるだけだ。
これだけ信じられない材料がそろっているのに、人々はなぜ科学を簡単に信じているのか。ニュートンを信じられるなら、わたしのことばがどうしてしんじられないのか。人間の信じ方はデタラメだ。
それどころか、人間は、信じているくせに「信じられない」ということがあるから、ますます信用できない。宝くじが当たったなど、都合のよすぎることが起こったとき、われわれは「とても信じられない」と驚き、「夢ではないか」と疑うが、むろん、内心では信じている。とても信じられないから賞金を受け取らない、という人はいないのだ。
もしかしたら、「自分は宝くじを当てるような何十万人に一人という特別な人間ではない」と謙虚に考えているのかもしれないが、そもそも何十万人に一人になってもおかしくないと思うから宝くじを買っているのだし、第一、宝くじが外れ続けたら、なぜ自分がこんな不当な扱いを受けなくてはならないのか、と憤慨するに違いないのだ。
むしろ、「信じられない」といっても、「常識では信じられないほど自分は特別だ」ということを強調したいだけではなかろうか。これはちょうど、他人の愚かな行動を見て「信じられない行動だ」というのと同じである。最初から他人は愚かだと信じているのだが、「常識では考えられないほど愚かだ」と強調したいだけなのだ。
だから「信じられない」とだれがいっても信じてはならない。」
(初出 「週刊文春」)
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