「夜中の薔薇」 向田邦子 講談社
四角い匂い p42〜
「部屋を出てエレベーターに乗ると、菊の匂いがした。
乗っているのは私ひとりである。他人の体臭がないので、匂いは余計はっきりしていた。足許に菊が一枚落ちていた。
ほんの少し前に、菊の花を持った人が乗り降りしたに違いない。
散りてのち 面影にたつ 牡丹かなたしか蕪村の句である。花の姿はないのに匂いだけ残っている、花のないほうが匂いは鮮烈であるという句はなかったかと考えてみたが、思い出せなかった。
マンションのエレベーターは、さまざまな匂いをのせて上り下りする。
朝は出勤する人たちの整髪料の匂い。ひる近くなると、出前そばの匂い。衣更えの時季には樟脳の匂い。
小学校一年に入学した坊やと乗り合わせたときは、新品のランドセルの革の匂いはいっぱいに立ちこめ、私まで弾んだ気分になった。
マンションのお葬式は、エレベーターの残り香でも判る。お香と花の匂いが一日中残って、ときどき顔を合わせていただいたどなたかに不幸があったのかと、重い気分になる。すこしたって、このふたつの匂いはまた一日中エレベーターに立ちこめる。ああ、もう初七日になったのかと、日の立つ早さに溜息がでてしまう。
四角い鉄の小部屋は風がない。匂いの逃げ場がないせいか、残り香は四角くなって、あとまで残るであろう。」
口紅 p44〜
「うちを出てすこし歩いてから、口紅をつけ忘れたことに気がついた。
急に落ち着かない気分になった。別に気の張るところへ出掛けるわけではない。突っかけサンダルで、ほんのそこまでの買い物である。普段でも居職をいいことにして、白粉気は全くなしのほうだし、口紅もつけたりつけなかったりなのだが、つけたつもりでいたらつけていなかったというのが、虚をつかれたようで、居心地が悪いのである。
気のせいか商店のショーウィンドーにうつる私の顔は、二つ三つ、いや五つ六つ老けてみえる。たしか川端康成の小説だったと思う。女主人公の口紅が唇の上半分しかついてなくて、手伝いの人に注意される場面があった。
まず上唇に口紅をつけ、唇をきつく結ぶようにして、上の山を下唇にうつすやりかたは私もよくする。洗面所でこの通りにやりかけたところで御用聞きが来た。 返事をしながら飛び出そうとして、上半分だけしかついていないことに気がつき、あわてたことがあった。口紅のつけ忘れや洋服のほころびに気がつくと、どうしても態度に出る。
心臆しているせいか楽しくない。いつものように魚屋のおじさんと冗談を言い合ったり、八百屋で値切ったりしないで、まっすぐ帰ってくるのである。」
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