2021年11月10日

文章のうまさとは

「中国の屏風」サマセット・モーム 小池滋訳 モーム・コレクション ちくま文庫 1996年

 ローリング・ストーン(転石)p16〜

 「…(彼は)中国貧民に化けて、ペキンから中国全土の旅に出た。中国の宿に泊まり、仲間の旅人と一緒に炕(かん*暖房装置)に雑魚寝し、中国食を食べた。これだけでも並大抵のことではない。ほとんど列車に乗らず、大部分は歩くか、荷馬車に乗るか、船に乗った。陝西省から山西省へ行き、風の吹き荒れる蒙古高原を歩き、野蛮なトルキスタンで生命の危険をも冒した。砂漠の遊牧民と一緒に何か月も暮らし、ゴビの荒涼たる砂漠を磚茶(タンチャ)を運ぶキャラバンと一緒に横切った。とうとう四年後に八〇〇ドルを最後まで使い果たしてからペキンに戻ってきた。

 それから仕事を探しにかかった。もっとも簡単な金儲けの方法は旅行記を書くことだと思った。中国で英字新聞を出している、ある編集者が連載記事を書くようにすすめた。わたしが思うに彼が苦労をしたのは、体験があり余って何を選ぶかにあったのだろう。イギリス人では彼しか知らないことを、たくさん知っていたのだから。不思議なことに、感銘深いこと、恐ろしいこと、滑稽なこと、意外なこと、ありとあらゆることを見て来たのだから。彼は二四回の連載記事を書いた。読むに耐えぬ記事とは言うまい。丹念な、同情に満ちた観察記録だから。しかし、彼の観察はいわば行き当たりばったりだから、芸術の素材でしかない。デパートのカタログのようなもので、想像力豊かな人間にとっては宝庫だが、文学というよりはむしろ文学の土台なのだ。彼は博物学収集家であって、辛抱強く無限の事実を集めるが、一般論にまとめる才能に欠けている。その事実を綜合する、彼よりもっと複雑な頭の持ち主が必要なのだ。彼が収集したのは植物でも動物でもなくて人間だ。彼の人間コレクションは天下無類だが、彼の人間についての知識は乏しい。

 わたしが彼に会った時、わたしは彼のさまざまな体験が彼にどのような影響を与えたを知ろうとした。しかし、彼は逸話はどっさり持ち、愉快で人付き合いのよい人間だから、見聞のすべてを進んでたっぷり話してくれたが、彼の冒険が彼の心の奥を揺り動かした痕跡を見つけ出すことはできなかった。彼が行ったすべての奇妙な行動を行いたいという本能から察するに、彼の性格のどこかに奇妙なところがあったのだ。文明社会にはあきてしまい、ありふれた生活路線から脱線したいという強い熱情の持ち主なのだ。人生の異常さが彼にとっての楽しみなのである。あくことのない好奇心の持主だ。だが、わたしが思うに、彼の体験はあくまで身体の体験であって、魂の体験に変換されることはなかった。だから、、根本において彼は平凡な人間だという感がするのだ。彼の顔がごく普通なのは、彼の魂が平凡であることを証拠立てている。のっぺら棒の壁の向こうにあるのは、のっぺら棒だけだ。

 だからこそ、あれほど書く材料をたくさん持ちながら、彼の文章が退屈なのである。なぜなら、文章を書く時大切なのは、材料の豊かさではなくて、個性の豊かさなのだから。」

(1919年頃の中国)
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「個性の豊かさ」、「魂を揺り動かされた痕跡を如何に表現するか、その人間性」
posted by Fukutake at 07:41| 日記