「他界からのまなざし −臨生の思想−」古東哲明
講談社選書・メチエ 2005年
(その2)世阿彌 p42〜
「よくしられているように、世阿彌は、おもに複式夢幻能形式でつくった。現在能と違い、夢幻能は、ひとりの人物の死をはさんで、此岸の生涯のこの世のできごとから、死後の彼岸のありさまにまでおよぶ。他界人(死者・精霊・神霊・物狂い)が主人公(シテ)であり、その生死往還は筋書きとなるのも、そのためである。…この世とあの世の間をさすらう、表面は静態的にみえる能舞台の内部には、ぼくたち人間の精神にゆるされた、おそらく最大の振幅運動が、起動するのである。最初はこの世からあの世を観ていう視座(他界へのまなざし)は、途中でこの世でもあの世でもない宙吊り地帯へ連れ込まれる。そしてさらに、あの世からこの世を観る視座(他界からのまなざし=臨生する精神)へ幻容。そしてふたたび元のこの世にもどる。
<他界からのまなざし>とは、「人間の運命やこの世のありさまを、日常や社会的レヴェルを越える場所との関連から、感じ考えみなおすこと」、にあるように思われる。
…
(よみがえる此岸)たとえば世阿彌が題材とした『平家物語』は、殺伐とした合戦の激しさをえがき、恋を語る。武将たちの死に及んでも、どこまでもこの世の生者の心理や立場に立ってのことだ。しかし『敦盛』。これは出家後の直実と死者なる敦盛との出会いであり、もはやここでは二人は、この世の生存システムが強いた敵どうしではない。
おもてむきは、敦盛が「懺悔の物語」をし、直実が十念をとなえることによって、敦盛の妄執の霊をめでたく浄土界へ往生させるという、型どおりの浄土門的祭祀劇(=現世的リアリズム劇)になっている。しかし、それはストーリー進行上の単なるネタ。生前は敵味方どうしであった者が、仏教的起縁を介して和解にいたるという結末も、本筋からのたんなる波及効果にすぎない。むしろ本筋は、平家一門の栄華と没落のさまを旧懐し、死の側から、その光景を凝視めなおすことにある。
まことに一昔の過ぐるは夢の中なれや、寿永の秋の葉の、四方の嵐に誘はれて、散り散りになる一葉の舟に浮き波に臥して、夢にだに帰らず…
野も冴え返る海際に舟の夜となく昼となき、千鳥の声もわが袖も波にしをるる磯枕、海人の苫屋に共寝して、須磨人にのみ磯馴松の立つるや夕煙、柴といふもの折り敷きて思ひを須磨の山里の、かかる所に住まひして…
クライマックスでのこの敦盛のせりふには、地上生での、そのはかない一時の生のありさまが、哀切なしらべをともないながらも、きらめくような光沢をあびて、再現されるばかりである。死や死後を濾過してみつめられればこそ、この世のありさまが、こうも光彩をはなつというわけだ。死の側に立ち、死の底からこの世この生(閻浮(えんぶ))を発光させること。つまり臨生体験をひきおこすこと。これが『敦盛』の本題だということである。」
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死から現世へのまなざしが、よりこの世の美しさを反照する。
2021年11月10日
あの世から現世を見る視点
posted by Fukutake at 07:38| 日記