「わが人生観 2」亀井勝一郎 大和書房 1968年
愛について p199〜
「人間の言葉で最も美しいもの
人は愛することによって言葉の価値を知る。いままで何げなく使っていた言葉は、もう言葉とは思われないであろう。今はじめて言葉を発する人のように一語一語に思いをこめ、その一語一語が花火のように花びらのように舞うのを自覚しながら、人は恋を語るであろう。いざなぎいざなみのみことは何処にでもいるのだ。人は愛することによって神話の創世記に入る。彼みずからが神となる。言葉がいのちであり、肉体や性や霊と一なるものであることを知るのはかかる時だ。そこに新生がある。自然はふたたびよみがえり、心はふたたび新鮮な輝きにみちわたる。言葉の改革を叫ぶものは、老若をとわず、まず恋愛をしてから改革をいうべきではなかろうか。
生ある者は必ず滅びる。人間、これは死すべきものだ。そしていかなる人間も自己の全願望をとげることなく死ぬ。いわば中途にして倒れるのが人間の運命であって、この意味では人はみな何ものかの殉教者であると言ってよい。人は死を凝視することによって言葉の価値を知る。ただ今臨終と覚悟してみよ。いままで何げなく使っていた言葉はもう言葉と思われないであろう。今はじめて言葉を発する人のように、一語一語無量の思いをこめて発するであろう。自己の衷心の願いを果たさんとして果たしえなかった無念の情を。すなわち、その人のいのちである一念を、語るであろう。人は自己の死によって言葉に生命を与える。詩人は言葉を生んで死ぬ。作品の完成とは作家の死だ。言葉を新しくしようと思うものは、つねに臨終の覚悟に生きなければならない。死を凝視して発する言葉に真の価値がある。
人間の言葉の中で、最も美しいのは、相聞と辞世であると、私は幾たびもくりかえし書いてきた。すなわち愛の歌と死の歌と、歌という形式のみを指すのではない。精神存続の健全な形態を言うのである。相聞と辞世。人がまじめに語り表現するところは、詮じつめればこの二つの形態しかない。それが何ものへの愛であろうとも、何もののための死であろうとも。そして愛の窮極の言葉は死の言葉、辞世につながる。故に、無学な女の人のかいた恋文すら、なお大文学の基礎とするに足りる。愛する人の死後、何が我々を最も悲しませるか。何を我々は切に思い出すのか。死せるその人の愛の声であり、言葉ではないか。」
----
言葉は言霊