「真贋」 小林秀雄 世界文化社 2000年
生と死 p260〜
「… 人の一生の移り変わりでは、移り変わるのが我々自身なのであって、我々が外から、その移り変わりの序(ついで)を眺めるという性質のものではないのである。この意味合いから、兼好は、「死期に序なし」と言うのです。だが、人々は、なかなか、これを納得しない。死から顔をそむけたがるからだ。「死は前よりしも来らず、かねて後に迫れり」と言う。これもずい分強い言い方である。潮干狩りに行った人々は、皆、潮は沖の方から満ちて来ると思って沖の方を見る。「沖の干潟遥かなれども、磯より潮の満つるが如し」。生が終わって、死が来るのではない。死はかねて生のうちに在って、知らぬ間に、己れを実現するのである、というのが兼好の考えなのです。これが腹に這入るのが、兼好は、こういう言い方で言ってはいないが、人の世の無常迅速を体得する事である。そういうしっかりした思想を、兼好は持っていたと見て差支えないのです。
吾が身の移り変りは、四季の移り変りとは様子の違うところがある。まるで秩序(ついで)の異なるものだと言ってもいい。私達各自が、兼好の言うように、先ず目標を定め、「必ず果し遂げんと思はん事」に努力しないならば、この世が、しっかりした意味や価値を帯びるという事はないのである。そのように人の世の秩序を、つらつら思うなら、死によって完結する他はない生の営みの不思議を納得するでしょう。死を目標とした生しか、私達には与えられていない。その事が納得出来た者には、よく生きる事は、よく死ぬ事だろう。言葉の上の戯れではない。私達の心とか命とか呼ばれているものの在るがままの姿を、知性で捕らえようとすれば、そんな風な言い方をするより他はないだけの話でしょう。
兼好は、其処に、「実の大事」を見たが、唯物論、合理主義、それに科学技術の君臨している現代人の教養の偏向のうちにあっては、なかなか解りにくいところもあるだろう。人の心や命の在るがままの姿というようなものは、大事どころか、個人的な主観的な事実に過ぎないと軽んじられる、強い傾向があるからです。だが、「徒然草」が、今日もなお、私達を捕らえるのは、その時代の通念などに囚われなかった筆者の眼力の故でしょう。それは「世に従はん人」の眼ではなかった。「真俗につけて、必ず果し遂げんと思はん事は、機嫌を言ふべからず」とあった、その「真俗につけて」という言葉で、兼好が言いたかったところは、「実の大事」ともなれば、学問の上での道理、日常の暮らしの上での道理などという別があるわけはない、そういう処にあった。…」
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個人的な生き生きとした主観的事実の他に人生の実相はない。これが人生の大事。