2021年10月01日

一たび貧しく一たび富む

「蒙求」 早川光三郎(著) 三澤勝己(編) 新書漢文体型28 明治書院

鄭荘置駅 p35〜

 「前漢の郭当時は字を荘といい、陳国の人である。孝文帝の時、男だての行動をして自ら楽しんでいた。ある時、張羽という人の危ういところを救ってやったが、それから評判が梁楚二国の間で高くなった。孝景帝の時に太子の舎人となった。五の日の休暇毎に、常に伝馬を長安の四方の郊外に配置しておき、賓客を家に招待拝謝し、昼から夜に引き続き御馳走し、常に万遍なく招いて、交わりを欠くのを恐れた。その知友は、彼よりずっと上の人で、皆祖父と同年輩クラスの天下に有名な人士であった。武帝の時、彼は大司農(農林大臣)に役がうつった。彼が大吏となるや、門下の食客に注意し、「客が来られたなら、身分の貴賎を問わず、直ちにお通しし、門に留めて待たせておくようなことをするな」と申しつけておいた。かれは賓客の誰にでも、客と主人との礼をきちんと行い、貴い身分になっても常に人にへり下っていた。又、属官小役人を推薦するのに、常に自分よりもすぐれているといって引き上げた。人の善い言葉を聞けば、これをお上に申し上げ、ただ遅れるのを恐れた。それ故、山東の諸公は揃って彼を推称した。後、罪におちたが許され、再び起用されて、汝南の太守となってなくなった。なくなった時には、家には残っている財産はなかった。客をもてなし私することがなかったからである。

 鄭当時より前に下卦に翟公という人がいたが、彼が廷尉(最高裁判所長官)になると賓客が門に満ちた。彼がやめると、又客はよりつかず門前に雀捕りの網がはられる程だった。後また廷尉になると、又客が彼の所に大勢行こうとした。彼はこういう浅薄な人情に愛想をつかし、その門に大書した。「一たびし死に一たび生きることで、はじめて人の交際の情を知り一たび貧しく一たび富んで、はじめて交際の態度が分かり、一たび貴くなり一たび賤しくなることで、交際の真の情がはじめてあらわになる」と。」

-----
知るべし。世間の実像を。
posted by Fukutake at 07:52| 日記