「小林秀雄全集 第十一巻」− 近代繪畫 − 新潮社版 平成十三年
「論語」 p544〜
「「論語」に現れた思想は、封建的なイデオロギイであつて、現代に通用しないといふ今日誰でも言ふきまり文句は、根本的に未熟な考てから成り立つてゐる。なるほど、「論語」の思想は、西紀前六世紀の中國の思想に相違なく、當時の歴史的條件に規定されてゐる。しかし、この思想が、當時の人々を深く動かした現實の力といふものは、さういふ見地から充分に解明出来るかどうか疑つてみなくてはなるまい。或る物的現象は、その原因である外的條件を數へあげれば説明がつかうが、内的原因を隱し持つてゐる人間の思想を、同じ方法で説明しようとしたら、無理が生ずるであらう。孔子は、誰の口眞似をしたわけでもなく、誰から強制されたわけでもなく、自身の體験から、自由に新しい思想を工夫したのである。そして又、當時の人々が、彼の思想に動かされたのも、孔子といふ人間においてこのことを感得したが爲であらう。
この孔子の自由を、今日の私達も感得することが出来る。何によつて感得するか。古典に直接に接し得たとしか言ひやうのない經驗によつてである。「論語」といふ歴史的文獻を、知的に分析する者は、封建的イデオロギイといふ物的構造しか見ないが、「論語」といふ古典を直觀的に讀む者は、其處に構造の明らかなイデオロギイを見る代わりに、孔子の體得した自由の象徴的な姿を感ずるであらう。そして、孔子の思想を限定した歴史的條件なるものは、孔子が獨徳な思想を發明し、それを表現する爲に、止むなく採つた手段、とさへ逆に感ずるであらう。この感ずることが大切なのである。何故かといふと、ある鑄型に流し込まれた材料が、鑄型通りに固まるやうに、思想は、歴史的環境にしつくり合ふやうに産み出されるものではない。そんなことで、どうして思想は生きられようか。人々に働きかけれようか。環境が思想を作るのではない。環境に自由に反應する精神が思想を作るのである。古典を讀むとは、この精神の働きを、その強さなり、力なりを共感によつて取戻すことなのである。
「論語」の思想構造は、當時のあれこれの知識を、取り集め、巧みに合成したといふ風なものではない。曖昧で複雑で、見透しの利かぬものを持つてゐながら、全體としての統一は否定出来ぬ有機體のやうなものだ。自分の經驗に照らして感得しなければならぬものに滿ちてゐる。」
(「講座現代倫理」、昭和三十三年十一月)
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孔子が経験した思想