「プラトン W ー 政治理論ー」田中美知太郎 著 岩波書店刊行
治国の根本にあるもの
国家成立の道徳的基礎ープロタゴラス神話 p51〜
「国家統治技術、知識あるいは智と呼ばれたものは何なのか。それの存在もしくはあり方は果たして自明なのか。われわれはそれが「徳は教えられ学ばれうるか」という問題につながるものであることを見たはずである。『プロタゴラス』においてプラトンは、かれがソフィストの元祖とみなすプロタゴラスをして、その抱負を語らせているのであるが、それはー
ひとがわたしのところから学べることはというと、まず自分の家についてはどうしたら自分の家を最もよくととのえることができるか、また国家のことについてもどうしたら実行においても言論の上でも最上の能力をもつことができるかの妙計なのである。
というようなものであった。対話人物のソクラテスはこれを受けてー
あなたの言おうとされているのは国家統治技術のことであり、あなたの約束されているのは、ひとをすぐれたよき市民にするということであるように思われるが。
と言いながら、果たしてそれが他の技術のように教えられ、学ばれうるものであるかどうかの疑問を出すことになる。「すぐれたよき市民をつくる」ということは、市民をすぐれたよき市民たらしめる市民の徳を教えるということであり、「国家統治の技術」は古代シナの賢人が考えた修身斉家治国平天下の道に通ずるものであると言うこともできるだろう。もしそういう術があり、これをわれわれが手にすることができたとしたら、それはすばらしいことだとソクラテスも言うのである。しかしそれはどうして可能なのかが問題なのである。なぜなら、まず、ー
アテナイの議会において土木工事とか造船とか、一般に専門技術にかかわることが議題になるときには、それぞれ専門家を呼んでその意見を聞くようにしていて、これについて何の知識もないような人間が意見を述べようとしても誰もそれを聞こうとせず、野次り倒して降壇させるという事実が見られる。ところが、国事についての専門家というものは存在せず、国事については専門の学問とか技術とかいうものはないということになるのではないか。。
またすぐれた政治家であったペリクレスのようなひとも、自分がすぐれている所以のもの(徳あるいは智)を自分の子弟や近親の者に教えることはできなかった。若い者たちは他の点では充分な教育を受けることができても、この点では何も教えられず、まるで「放し飼いにされた羊」のように、あてもなくそこらを歩き廻って、そのような徳に偶然出会うのを待つほかはないのである。治国の技術とか知識とかいうものは教えられも学ばれもせず、その教師というようなものはどこにも見るからないのであり、事実上存在しないと考えなければならない。
というような理由があげられる。これは治国平天下の道を教えることを看板にしているプロタゴラスにとって、そのような職業の存立を危うくする一大事が問われたことになるのであるが、われわれにとってもやはり絶体絶命の問いであると言わなければならないだろう。」
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事実上存在しない!