2021年07月29日

方丈記 後段

「方丈記」 (付 現代語訳 簗瀬一雄 訳注) 角川ソフィア文庫

第二十五段

 「仮に、自分が人かずにはいらないつまらない身分で、権力者の隣に住むことになったとすると、たいへんうれしいことがあっても、そのままの気持ちをあらわして、大いに楽しむことができない。悲しみが痛烈であっても、あらわに声を立てて泣くことができないのだ。行動すべてについて不安で何をするにもびくびくしている様子は、たとえてみると、雀が鷹の巣に近づいたようなものだ。仮に、貧乏で、金持ちの家の隣に住んだとすると、朝に晩に、みすぼらしい自分のみなりをはずかしく思い、家への出入りにも、隣のごきげんをとるようなことになるのだ。妻や子が、また召使が隣をうらやましがる様子が目にふれるにつけ、金持ちの家の人が、自分たちをばかにして、いばりくさっている気配を感じとるにつけて、自分の心が、気にすれば、気にするたびに動揺して、一時(いっとき)として、安まることがないのだ。かりに、隣家のたてこんだ土地に住むとすると、近くに火事があった場合、類焼をまぬがれることができない。かりに、へんぴな土地に居住するとすると、よそへの往来にやっかいで、盗賊におそわれる心配が多い。また、権力のあるものは、欲が深いし、身よりのないものは、他人から軽く見られる。財産があれば、心配が多いし、貧乏なら、人をうらやむ心が強いというぐあいだ。他人にたよると、自分が自分のものでなく、他人の所有になってしまう。他人を世話すると、その人に対する愛情にひかれて、心の自由を保つことができなくなる。世間のしきたりにしたがえば、自主性を失って、窮屈だ。したがわなければ、非常識な狂人みたいに見られる。 ーどこに住んだら、どんなことをしたら、しばらくの間だけでも、わが身を安住させ、ほんの少しの間だけでも、心の不安を休ませることができるのだろうか。 ー人間に生まれた以上、とてもできそうにないことだ。」

(原文)
 「もし、おのれが身、数ならずして、権門のかたはらにをるものは、深くよろこぶ事あれども、大きに楽しむにあたはず。なげき切(せち)なる時も、声をあげて泣く事なし。進退安からず、立ち居につけて、恐れおののくさま、たとへば、雀の鷹の巣に近づけるごとし。もし、貧しくして、富める家の隣にをるものは、朝夕、すぼき姿を恥ぢて、へつらひつつ出(い)で入る。妻子・童僕のうらやめる様を見るにも、福家の人のないがしろなる気色を聞くにも、心念念に動きて、時として安からず。もし、狭き地にをれば、近く炎上ある時、その災をのがるる事なし。もし辺地にあれば、往反(わうばん)わづわひ多く、盗賊の難はなはだし。また、いきほひあるものは貪(とん)欲ふかく、独(とく)身なるものは、人にかろめらる。財(たから)あれば、おそれ多く、貧しければ、うらみ切なり。人を頼めば、身、他の有なり。人をはぐくめば、心、恩愛(おんない)につかはる。世にしたがへば、身、くるし。したがはねば、狂せるに似たり。いづれの所を占めて、いかなる業をしてか、しばしもこの身を宿し、たまゆら*も心を休むべき。」

たまゆら* しばらくの間だけでも。

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posted by Fukutake at 13:30| 日記