2021年07月25日

働いたら食べる

「我々は働くために生きるのか ー ドイツ人禅僧の労働論ー」 ネルケ無方*
(「考える人」季刊誌 2014年 冬号 No.47より)

「「かつての百丈禅師は言って板ではないか『一日作されば、一日食らわず』と。甘 い生活を脱出して、大自然の中で自給自足をしようではないか。それは日本の現代 社会への問いかけにもなるはず」 百丈とは唐代の禅僧のこと。インドとは違い、中国の仏教僧は朝廷の支援で生活し ていたと聞く。ところが、唐代の中頃から仏教界の堕落が問題視され、一時期は僧侶 への寄付も禁じられた。多くの叢林(僧侶の共同体)はそのときから廃滅に向かって いたようだ。 その大ピンチをチャンスに変えたのが百丈だった。戒律を抜本的に改革。作務すな わち肉体労働こそ仏弟子にふさわしい修行だとした。この一八〇度の方針変更が、 仏教の後世への発展に繋がったと言われている。 百丈の精神を伝える有名な公案がある。 ある日、年老いた百丈が農作で使う鍬やスコップをいくら探しても見つけることがで きなかった。師匠の身体を心配した弟子たちが隠していたのだ。すると百丈は断食に 入ってしまった。不思議に思った弟子の問いに対して、有名な禅語が返ってきた。 一日不作、一日不食 この言葉は、「働かざる者は食うべからず」という意味ではないのだ。正しくは、「食 物は天地からいただいた命の源。だから食べることは大事な修行である。同様に、作 務のエネルギーも天地からいただいたものであり、それは食べるための手段ではな く、食物と同じように天地からの贈り物なのである」という意味である。 悟りの上にあぐらをかいて、人々の施しを受けるだけが托鉢ではない。鍬やスコップ を持って田畑に向かう姿こそ、本当の仏道修行なのである。 天地も施し、空気も施し、水も施し、植物も施し、動物も施し、人も施す。施し合い。 われわれはこの布施し合う中にのみ、生きておる」(沢本興道『禅に聞け』) 安泰寺を再興した禅僧の言葉である。托鉢とは一方が一方に施すというような関係 ではなく、作務が天地からの贈り物であれば、それは「自然へのお布施」ともなる。 田畑を耕すということは、自分の命を耕すことー。残念ながら現代は、僧侶が自ら農 作業に携わるという伝統は途切れてしまったようだ。安泰寺以外で自給自足の生活 をおくっている修行寺を寡聞にして私は知らない。」

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ネルケ無方* 一九六八年ドイツ生まれ。兵庫県にある曹洞宗 安泰寺住職。
posted by Fukutake at 08:43| 日記