「小林秀雄全作品26」信ずることと知ること 新潮社 平成十六年
歴史について p232〜
「今日、歴史ブームという事が言われている。その意味は曖昧だが、はっきり言える事はある。これも歴史家が長い間常識を外れた仕事をやっていた。その反動がきたのだ。はっきりした唯物史観というものが、歴史を考える人たちを支配して来たと言えないだろうが、自然科学に見合った実証主義の考えの歴史支配が、常識人なら誰も感じている歴史の命を殺してしまったという事は言えるだろう。諸事実の発見、証明、確認、そんな事を、いつまでもやっているんだ。何という退屈、そういう全く簡単な事なのだ。歴史というものはそのような退屈なものではないという常識人の確信が頭をもたげた。こんなはっきりした事はない。歴史上の事実とは、ただ調べられた事実ではない。考えられた事実だ。
昔の人は、面白くない事実など、ただ事実であるという理由で、書き残して来た筈はない。あんまり面白いことがあったから、語らざるを得なかったのだし、そういう話は、聞く方でも親身に聞かざるを得なかったのだ。こんな明瞭な歴史の基本の性質を失念してしまっては仕方がない。歴史を鏡と言う発想は、鏡の発明と共に古いでしょう。歴史を読むとは、鏡を見る事だ。鏡に映る自分の顔を見る事だ。勿論、自分の顔が映るとは誰もはっきり意識はしてはいない。だが、誰もそれを感じているのだ。感じていないで、どうして歴史に現れた他人事とは思えぬ親しみを、面白さを感ずる事が出来るのだ。歴史の語る他人事を吾が身の事と思う事が、即ち歴史を読むという事でしょう。本物の歴史家が、それを知らなかったという事はない。そういう理想的読者を考えないで書いた筈はないのです。古い昔から私達が歴史家の先祖と考えてきた司馬遷が、どんな激しい動機から歴史を書いたかは誰も知るところだ。
歴史における実証主義などという、近ごろの知識人の頭脳を少しばかり働かした思想などで、人間の歴史の基本的な性格がどうなるものでもないではないか。世の有様が、鏡に照らして見るが如く、まざまざと読むものの心眼に映ずる、これが史書を「鏡もの」と呼んだ理由でしょう。まざまざとという日本語の味わいを、よく噛みしめてみるがよい。現代は言語の知的発明や使用が盛大だが、古くからある言語というものは、すべて直かな生活経験の上に立つものだ。まざまざと見える歴史事実というものが、先ずあったのである。先ず僕ら文学者に親しい事実があったのだよ。
歴史的事実は、そのどうにもならぬ個性、性格をまざまざと現しているものとして、即ち歌い物語る事が出来るものとして、まず我々にその姿を現したものなのだ。このようなものの認識を、宣長は、今を昔に、昔を今に、「なぞらえる」という言葉で言ったのだ。歴史事実に行きつく外の道はないのだ。吾が身になぞらえて知る歴史事実の知識は、直かな知識だが、個性を離れた一列一体の事実、その間の因果関係というようなものは、ただ嘘ではないという間接的知識に留まる。ただ嘘ではないという知識も大変な応用は利く。それを現代人は技術の上で極度に利用している事は言うまでもない。あんまり利用が出来過ぎて、みんな不安になっている。…」
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まざまざと感じる歴史