2021年07月19日

召集令状

「井伏鱒二全集 第十巻」 筑摩書房 1997年

旅館・兵舎 p155〜

 「私は小田嶽夫君といつしよに甲府市の東洋館といふ宿に滞在中、東京から愚妻の電話で私に徴用令が来てゐるのを知ることができた。その前後の十時ごろ、愚妻から「ヨウジアルスグオカエリコウ」といふ電報を受取つたが、夜の十時以後は汽車の都合が悪いので、翌朝早く汽車に乗るつもりで寝床についた。そしてまだ起きて同じ部屋で原稿をかいてゐた小田君に、自分だけ急に帰らなければならなくなつたことを私は謝つた。小田君は「子供さんの病気だらうか。いやそれなら病気と書いてある筈だ」といつた。ところが翌朝になつて梅干しでお茶を飲んでゐると、甲府市の郵便局長から私に電話がかかつて来た。昨夜、電報を確かに受取つたかと私に念を押した後、実は、あの電文の「ヨウジアリ…」は「コウヨウアリ」の間違ひだから改めて訂正したいと局長はいつた。するとまた別の電話がかかつて来て、今度は愚妻の声で徴用令が来てゐるといつた。電文は何と書いたかとたづねると「コウヨウアリ…」と書いたといふのである。私は区役所へ出頭する日取りを確かめて、まだ三日間も余裕があるので小田君とゆっくり話をして別れることにした。徴用になれば少なくとも二年間は会ふことはできないだらう。私たちはせめて将棋でもさして別れようなどと話し合つてゐたが、額の小さな娘は早くも私が徴用されたと知つて、廊下で笑ひ出した。「こら、何を笑ふか」と叱ると「あんなおぢいさんが、旋盤工になるなんて」といつてまた笑つた。私もその日頃までは、徴用者といふものはたいてい旋盤工になるものと思つてゐた。

 ところがまた電話がかかつて来て、今度は「そこに小川がをりますでせうか」と小田君の奥さんからの通話であつた。やはり小田君のところにも、徴用令が来たさうであつた。私は小田君が荷物を片づける間に階下の応接間へ降りて行き、そこにあつた新村出編集の辞苑といふ字引きを引いてみた。「せんばん」といふところを見たわけである。今でも私は、その「せんばん」の解説を覚えてゐる。「工作機械の一種、主軸が工作物とともに回転し、これを刃物に当て、云々」と説明してあつた。

 私は小田君といつしょに帰京して、三日後に区役所に出頭した。そして大勢の同業者や知り合ひの編輯記者たちが同じ命令を受けてそこへ集まつてゐるのを見た。私たちは受取つた書類により、大体において南方へ行くのだといふことを知つた。南方ならば仏印ではないだらうかとお互ひに語り合つた。…
 或るとき指揮将校の引率で、橿原神宮の参拝に出かけたが、私たちの軍装がきちんとしてゐないので、街の子供が「あれは支那の捕虜かいな」と話してゐるのを耳にした。そのなさけなたつたことは今だに忘れない。」

(一九四三(昭和十八)年二月十日発行『時局情報』(毎日新聞社)の「南方随筆」の一篇として発表)

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posted by Fukutake at 13:34| 日記