2021年07月01日

信用あればこその祈り

「馬鹿だなあ。肝腎なのは政治経済学なのに!」 スラヴォイ・ジジェク 
 長原豊 訳 『現代思想 2009 1 vol.37-1』 青土社 掲載記事より

p201〜

 「進行中の金融危機に対する驚くべき最初の反応は、ある者が言ったように、「何をすればよいのか分かっている人間が誰もいない」というものである。その理由は、期待がゲームの一部だからである。市場の反応は、どれだけの人びとが国家介入に信頼を置くかだけでなく、もっと重要なことだが、彼らが他の人びとがそうした介入にどの程度信頼を寄せると考えているのかにも懸かっている。ひとは自分自身の介入の効果−帰結を考慮に入れることができないのだ。随分前のことだが、ケインズは、株式市場におけるこの自己言及性を一〇〇枚の写真から数名の美人女性を選ばなばならない馬鹿げた(新聞紙上の)美人コンテストを事例に、描き出しているが、このコンテストでの勝利は、一般的見解にもっとも近い女性に与えられる。
 ここでは、判断のかぎりを尽くして最も美しい顔を本当に選ぶということが問題ではないし、平均的な意見が最も美しいと本当に考えている顔を選ぶことさえ問題となってはいない。われわれは、自分たちの知力を挙げて平均的意見が平均的意見とみなしているものを予測するという、三次の次元まで到達している。なかには四次、五次、そしてもっと高次の次元を実践している者さえいる、と私は信じている。

 われわれは真っ当な意思決定を可能にする知識を意のままにできないにもかかわらず、意思決定を強いられているのである。あるいは、ジョン・グレイが言ったように、われわれは「あたかも自由であるかのごとく生きることを強いられている」のである。

 最近、ジョゼフ・スティグリッツは、ヘンリー・ポールソンの計画にもとづいたいかなる救済策も機能しないという予測が経済学者の間では常識になりつつあると前置きしたうえで、次のように書いている。

 政治家がこうした危機に際会して何もしないでいることなど不可能だ。というわけで、われわれは祈らなくてはならなくなる。たとえそれが、特定の利害や方向性を見誤った経済学、または右翼イデオロギーといった、危機を作り出した毒物のごた混ぜなどで念入りに造り込まれた合意であっても、どうか、効果ある救済計画を何とか与えてくれますように、あるいはむしろ、その失敗が酷い損害をもたらしませんように、と。
 彼は正しい。市場の実質的根拠が、信(用)、あるいはむしろ、他の人びとが信用することへの信(用)にあるからだ。…」


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全ての平均に自分は入っている?!
posted by Fukutake at 09:04| 日記