2021年06月29日

親の熱意が仇となる

「アラン人生語録」 井沢義雄・杉本秀太郎訳 彌生選書

子供の教育 p68〜

 「ソクラテスはすでにこれを指摘しているが、たとえいかにすぐれた人であっても、父親となると、わが子の教育は十分にできないものである。非常に教育のあるおばあさんの実例を見たことがある。彼女は、孫むすめに計算と綴り字を教えることがついにできずじまいだった。この逆説はいら立たせる。なぜかといば。いつでも両親は先生に熱意が足りないのだと信じがちだから。それゆえ、自分でわが子を教えようとして、熱意だけでは十分でないのをたしかめると、親たちはおどろく。私にいわせれば、それどころではないのだ。熱意こそかえって妨げになる。

 明らかに、教育は、他の技能とかかわりのないひとつの技能である。しかし私はこの技能の手順などというものもまた、決してさほどに信じていない。のみならず。先生がた、それも教育という技能に精通している先生がたが、ヴァイオリンの先生でもラテン語の先生でも、自分の子供に教えるとなると、どうもうまくいかなかったのを私は見ている。教育という技能の力は、われわれがそれを求めている場所には絶対にない。そこよりもっと下の方にあるのだ。礼金をもらっている家庭教師があるとしよう。彼はきちんと時間通りにきて、時間一杯でさっさと帰ってゆく。つぎの家にゆかなければならないからである。ここに現れているのは、曲げえない、同情を知らない秩序なのである。子供が勉強する気になっていようといまいと、そんなことにはまるでお構いなしだ。きまった時間にきちんと姿をみせる先生を、重大な理由もなしに首にはできまい。こうして、授業は必然性の面貌をおびることになる。まさにこれが大事な点だ。というのは、もしもちょっとの間だけ先に延ばせるという望みがちらと顔を出すと、もう子供は決して、本気になり注意をこめて神妙にしているはずがないから。だれしも知っているように、わが子の家庭教師になろうとする父親が完全に時間のドレイになることはない。だから子供はちっとも覚悟をきめない。決して理由をいわぬ規律で少しもしばられていないために、ひと思いに勉強にとびこみ全力を集中しはじめるというあの貴重な習慣を、子供は決して習得しない。子供は策略をめぐらす。ところで、あらゆる教訓のうち主要な教訓、いやもっとつっ込んでいえば、もっとも重要な教訓とは、必然性を前にしては策略をめぐらす余地がない、ということである。「ぜひもない」という、この何でもないコトバの意味をまなんだ人は、もうそれだけで多くを知っているのである。…本を閉じる。ほかの仕事に移る。まさにこのとき、読書はそれ自身のはずみで鳴りひびく。読書はそのとき、一種の不注意によってみごとに成熟しとげるのだ。このことは、おとなより子供においてなお一そう真である。」

------
親の熱意が子供を怠惰にする!

posted by Fukutake at 07:23| 日記