「中国の思想 第11巻 左伝」 徳間書房
鼎の軽重 p189〜
「陸渾(りくこん)地方(河南省陸渾県)の戎を伐った楚の荘王は、そのまま軍を洛水のほとりに進め、周の国境でこれみよがしの示威をおこなった。
周の定王は大夫王孫満を使者として差しむけ、その功をねぎらわせた。
その会見の席上、荘王は周王室に伝わる鼎のことを話題に持ち出し、その大小、軽重をたずねた。
「鼎の価値は、所有者の徳しだいで決まるものであって、鼎自体の大小、軽重とは無関係であります」といって、使者の王孫満はきり返した。「むかし、夏王の徳治が天下に行き届いていた時代、遠方の諸国に命じてその地棲息する怪物の類を描いた模様を献上させたことがありました。夏王はこの献上物が届くと、さらに九州の長官に命じて鼎の材料集めさせ、その材料でこれらの怪物をかたどった鼎を鋳造させたのです。こうして人民にありとあらゆる怪物の姿をあらかじめ示すとともに、その魔性の恐ろしさを周知徹底させたおかげで、人民は沼沢山林に踏み入っても、魔物にも逢わず、山川の悪病神にとりつかれる心配もなかったのです。かくて夏王の徳は上下をしっくりと一致させ、天佑をさずけられました。
しかるにその後桀王が現れて無道を行ったため、この鼎は夏から殷に移りました。さらに六百年たち、紂王が現れて暴虐にふるまうと、この鼎は殷から周に移ったのです。
つまり、鼎の軽重は所有者の徳しだいで決まります。鼎自体は小さくとも、所有者が明徳の持ち主であれば、鼎はどっしり腰を据えて、いくら他へ移そうとしても移せません。反対に、鼎自体は大きくとも、所有者がよこしまであれば、それは軽々と他へ移ってしまいます。
明徳の持ち主が授かる天佑にも、おのずから限度があります。かつて成王がこの鼎を郊蓐(こうじょく、周都)に安置して、周の将来を占ったところ、三十世、七百年は続くという託宣でありました。これが天の定めた限度であります。してみれば、今日、周王の徳は衰えたとは申せ、天命はまだ改まったわけではありません。したがってまだ鼎の軽重を問われるときではないと存じます。」
「威勢赫赫たる荘王にぐうの音も出させなかった王孫満。周の王室衰えたりといえども、なお人ありというべきである。」
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