「宮崎市定全集 17」 中国文明 岩波書店 1993年
食糧から見た中国史 p53〜
「後漢の末に宮中の宦官が横暴を極めたのは史上に有名な事実であるが、但し、これには一応の理由が考えられる。それは宦官に側からいえば、租税としての穀物供出を渋る悪徳地主を懲らしめてやるという意味が一方にはあったものと思われる。とまれ宦官が推薦した地方官と、土地の豪族とは至る所で衝突した。そしてこの衝突から、後漢の天下は大混乱に陥って了った。
後漢末の大混乱を鎮圧した曹操の成功は、裏からいえば彼の食糧政策の成功であった。彼は最も地方豪族の間の人心を収攬するに意を用い、その為には努めて土地にかかる租税を軽くした。併し、一方に戦争が絶え間なく継続するので、どうしても軍隊を養う兵糧が必要である。そこで考えた揚句に採用したのが屯田策である。戦乱で荒廃した土地を収めて国有とし、これに灌漑を施し、軍人に一定面積を与えて耕作させ、生産物の約五割を年貢として出させる。いい換えれば彼自身が荘園を持つことになったのである。彼が中原の群雄を平定することが出来たのは、この屯田によって糧食が豊富であった為であった。
彼の屯田策は、彼に対立する蜀、及び呉でも採用された。豪族の機嫌を損わずに、富国強兵を計ろうとすれば、勢い君主自身が荘園を持ち、軍費の為に地主に迷惑をかけぬようにするより外はない。蜀は四川の肥沃な平野を領有したが、生産の点でも人口の上でも、黄河流域の平原全体を掩有した魏には到底及ばない。諸葛亮が魏の内訌に乗じて兵を長安に進めたが、大決戦を行うことが出来ず、いつも失敗に終わったのは、兵糧を運ぶ輸送路が長過ぎて、軍隊の糧食が続かなかった為である。魏の実権が司馬氏の手に帰し、司馬氏の権力が確立すると、やがて蜀は大勢に抗し切れずに滅んで了った。呉に拠った揚子江に中流下流の地は未だ開発が十分に進まないで、その国力は到底、黄河沿岸の中原には及ばない。併し、それだけ発展性のある土地なので、一旦、呉は司馬氏の晋に亡ぼされたが、軈(やが)てその晋が北方民族の侵入により洛陽を陥れられると南に逃れ、呉の旧領土に立籠って東晋となった。
以後六朝時代を通じて、南北共に戦争が絶えず、土地が荒廃して政府も人民も共に食糧の不足に苦しんだ。特に北朝には異民族が侵入して戦禍が大きかっただけ、土地の荒廃も甚しく、歴代の君主は益々君主所有の荘園を強化して食糧の充実を計らねばならなかった。北魏の孝文帝や、その後を受けた北斉・北周の均田法と称せられるものは、かかる政策の現れであり、土地国有というのは実は天下の土地を君主の荘園に化することを意味したであるからかかる君主の荘園に対立する豪族の荘園も、矢張りその存在を認められていたので、各王朝の均田法に於いて、常に王公貴人に対して、広大な土地私有を許しているのである。均田法の土地国有主義には大きな抜け道が開いていた。」
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