2021年06月27日

本当の自分の死

「ヨーロッパ墓地めぐり」 養老孟司 「考える人」季刊誌2015年  No.54より

p175〜

「現代の日本では、死に関する態度が混迷しているように見える。七十年前までは、 そこには少なくとも暗黙の了解があった。人生は自分のためではなかったのである。 だから神風特別攻撃隊だった。戦後はむろんそれが逆転した。自己実現、本当の自 分、個性を追求するようになった。その典型はアメリカの文化であろう。そのアメリカ の脳科学がなにを見つけたか。ヒトの脳のデフォルト設定は社会脳なのである。つま り一人でものを考えたり、集中して作業をする時の設定ではなく、だれか他人の相手 をするときに働く部分が活性化している。それは日常でもわかるはずである。ものを 考えている、あるいは集中してなにかをしているときは、話しかけられたら迷惑であ る。でもなにもしておらず、ボンヤリしているときに話しかけられたら、「待ってました」 であろう。新生児の脳では生後二日目にはもはや社会脳の設定が見られるという。 新生児にとって重要なのは母親以外にない。それなら脳ミソがはじめから社会的設 定になっていて不思議はない。ものを考える能力は、おそらくそれに伴って、偶然に、 あるいはやむを得ず、発達してきたであろう。その証拠に、霊長類では大きな社会集 団を作る種ほど、脳の発達がいいことが以前から知られている。 その人独特の思想などというものはない。それは以前から指摘してきた。他人が理 解しない限り、どのような思想も定義により意味を持たない。社会脳がヒトの脳を前提 だとすれば、それで当然だということになる。ヒトに伝えるために考えている。

 ファーブ ルは虫ばかり見ていたが、最終的には『昆虫記』を書いた。日本人がこれだけ読むと は、ファーブル本人は夢にも思わなかったに違いない。しかし十九世紀のフランスの 田舎の爺さんの追憶記を現代の日本人が喜んで読む。まことに脳は社会脳だという しかないのである。 個人や個性、自分探しを批判すると、引っかかる人がある。それは当然であろう。自 分がなくては、そもそもどうしようもない。しかしその自分といえば、死ぬまではあるに 決まっている。あるに決まっているものを、取り立てていうのは、なにか裏に事情があ る。自分探しという以上は、現存する自分は仮の自分である。そ れはそれでいいの で、なぜならいつだってヒトは仮の姿といえばそうだからである。しかし仮なんだから 「本当の自分ではない」という主張は裏には「本当の自分が存在し、それにはもっと価 値があるはずだ」ということであろう。その価値はだからあらかじめ基本的人権として 定められている。それ以上望むのは本人の勝手である。 しかしその「仮の自分」を設定すると、人生そのものが仮になってしまう。それを続け ていると、死ぬ頃になって、まだ死にたくないとわめくことになる。それまで「仮の自分 が仮にしか生きていなかった」のだから、それで当然であろう。」

----
死ぬという覚悟
posted by Fukutake at 08:14| 日記