「小林秀雄全作品26」信ずることと知ること 新潮社 平成十六年
「語呂盤(ごろばん)」 p119〜
「…ベンダサンという人が、「日本人とユダヤ人」という本を書いた。ずいぶん本が売れたそうだ。あれの中に言葉の問題をちょっと書いてあるが、あれは面白いと、僕は思いましたね。ベンダサンは「語呂盤」という言葉を使っているんだよ。そろばんに日本人は非常に堪能だ。計算を意識的にしなくても、いや、むしろしない方が答えがうまく出て来る。そういうことは絶対に外国人には考えられないことだ。つまり日本人は暗算の天才だと言うのだ。それと同じように、日本語の扱いには語呂盤と言っていいものがあるんだ。その語呂盤で、言葉の珠を何も考えずにパチパチやっていれば、ペラペラ喋ることが出来る。これは日本語というものの構造から来ていることで、西洋人にはとても考えられないところがあると言うのだ。
日本人は数の訓練はしているが、言葉の訓練となるとまるでしていない。特に会話の訓練の伝統はない。この場合ベンダサンの言う訓練とは、日本のしつけとは違うのだよ。会話のしつけはあるが、訓練はない。母親が子供に「ちゃんと、おっしゃい」と言う時の「ちゃんと」は英語の「クリヤー」ではない。行儀よく発音しろという意味だ。この訓練とは、たとえばフランス語の作文(テーム、theme)の意味だろう。フランス語の教育におけるテームの重大性というものは、とても日本では考えられぬということを、以前パリにいた時、森有正君がしきりに言っていた。面白く思ったから覚えているのだが、それが、今度ベンダサンの本を読んで、はっきりとわかった気がした。言葉は、ロゴスだが、ロゴスには計算という意味があるのだそうだ。だから、西洋人には文章とは或る意味で言葉の数式だとベンダサンは言っている。なるほどだと思った。日本では作文とは美文を作ることだが、向こうで作文とは計算の正確を期するということなのだ。
ところで、この言葉の数式の代わりに、語呂盤を日本人は持っているというわけで、そこには驚くほど単語が珠になって詰めこまれ、これを無心にパチパチやることが、日本人の思考の型を作っている。ここから夥しい空論、珍論が生まれて来るが、カンに頼るという他はないゴロバンの名人は、また驚くほど現実に即した具体的な結論を引出して来る。もっと微妙なことを言っているが、まあ読んでみたまえ。面白い。…」
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日本語は話し言葉。