「夜中の薔薇」 向田邦子 講談社
頭中将 p73〜
「漢字を覚える時期によそ見をしていたんでしょう、私は、読めても書けないタチで、よく字を間違えます。霞町に住んでいた時分、どうも人さまからくる手紙と私の書く霞の字が違うので、突き合わせて辞書を引いたら、私のほうが間違っていました。
この始末ですから、人さまを笑えた義理ではないのですが、私に輪をかけたのがタレントさん方で、みなさん駄ジャレやちょっとした冗談はお上手ですが、字は苦手のようです。紅白粉(べにおしろい)はベニシロコ、断食(だんじき)はダンショクになります。
ついこの間、「源氏物語」の本読みで、たのしい思いをしました。難しい役名は、最初に登場する時に、ふり仮名をつけます。朧月夜尚侍(おぼろづきよのないしのすけ)という具合にです。ところが二度目からはキリがないのでふり仮名はしませんから、自信のない向きは、読む声が小さくなります。当日の傑作は、頭中将をアタマノタイショウ。小侍従(こじじゅう)を(ショウジュウジュウ)と呼んで、みんなを笑わせぐっとくだけた気分にして下さった方でした。」
(現代/1980・1)
楽しむ酒 p140〜
「金髪碧眼と言いたいところですが、髪はほとんど真白でした。鶴よりももっと痩せていました。年は七十をすこし出たところでしょうか。かなりの長身に、黒っぽいスーツでシャンと背筋をのばして、その紳士は一人でダイニング・ルームへ入って来ました。
ベルギーの首都ブラッセルの一流ホテルでした。夜の七時を少し廻った頃だと思います。紳士は窓ぎわに座ると、気の遠くなるほど時間をかけて、ゆっくりとメニューに目を通しました。
やっと決まって、まず食卓にパンが運ばれました。籠に入ったフランス・パンです。次に、グラス一ぱいの赤ワインがつがれました。紳士は、フランス・パンを千切り、赤ワインを浸して、ゆっくりと食べはじめました。新聞をひろげ、窓から夜景を眺めながら、紳士は二切れ目のパンにとりかかります。
運ばれてきたのは、舌平目のムニエルでした。紳士はゆっくりと食べ、皿に残したバタ・ソースをパンで拭うようにして食べました。犬がなめたようにピカピカの皿を返したあと、小さなコーヒーで終わりでした。
片手をあげて勘定を頼み、いくばくかのチップを銀色の盆に残して紳士はゆっくりと出てゆきました。
私は感心して眺めていました。老紳士のしたことは、長い間私たちがしてはいけないこととして固く戒められていることばかりです。…しかし、老紳士は不思議に魅力的にみえました。堂々として自然でした。一人きりのディナーを楽しんでいました。これでいいのだと思いました。…」
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