2021年06月18日

殺人者と警官の涙

「心 −−日本の内面生活の暗示と影響−−」ラフカディオ・ハーン著 
 平井呈一訳 岩波文庫

停車場で p10〜

 「…やがて、ひとりの警部の手によって、改札口からつきだされるようにして、罪人が出てきた。いかにも兇悪な人相をした、がらの大きな男である。首をうなだれ、両手をうしろ手にくくりあげられていた。罪人も、それから附き添いの警部も、ふたりとも改札口の前のところで、ちょっと立ち止まった。見物人はよく見ようとして、どっと前へ押し出した。が、物をいうものは、ひとりもいない。そのとき、警部が大きな声でどなった。
 「杉原さん! 杉原おきびさん! ここにきておられますか?」 
 すると、さっきから背中に子どもを負ぶって、わたしのそばに立っていた、小がらでやせぎすな女のひとが、「はい!」と答えて、人ごみのなかを押しわけて前へすすみ出た。この女の人が、殺された巡査の未亡人だったのである。背中の子どもは殺された人の息子であった。警部が手を振ってみせたので、見物人はあとへ下がって、懲役人と付き添いの警部のまわりに場所をあけた。そのあいた場所に、子供を背負った女のひとは、殺人犯人と向かいあって、立った。あたりは死のごとく、闃(げき)として静まりかえっている。
 やがて警部が、その女のひとに向かってではなく、背中に負ぶさっている子どもに向かって、しみじみと言い聞かせるように語りだした。低い声だったけれど、ことばははっきりしていたので、わたしは、一言一句洩らさず聞くことができた。
 「坊ちゃん、これがね、四年前に、あなたのお父さんを殺した男ですぞ。あなたは、あの時はまだ、生まれておいでなさんなかった。お母さんのお腹んなかにいなすったんだったね。今ね、坊ちゃん、あんたを可愛がって下さるお父さんがいなさらないのは、この男のしわざなのですぞ。よくごらんなさい。この男を。(と、ここで警部は、罪人のあごに手をかけ、おい、顔を上げろ、ときびしく命じた。)ようくごらんなさい。坊ちゃん。恐がることは、ちっともありませんぞ。おいやだろうが、こりゃ、あなたの務めなんだからね。ようく見てやるんですぞ。」
 子どもは、つぶらな目をぱっちりとひらいて、母親の肩ごしに、こわごわ相手を見つめた。が、すぐにベソをかきだした。涙がぽろぽろとこぼれた。しかし、泣きながらも、子どもは、なおも相手のすくみ入る顔を、まともにじっと睨んだ。睨んで、睨めつけた。
 見物人は、みな、息の根が止まったようであった。
 そのとき、ふと、わたしは、罪人の顔が歪むのを見た。と見るうちに、罪人は、手錠をはめられた身も忘れて、いきなりそこへ、へたへたとくずれ折れたとおもうと、顔を泥にうずめるようにすりつけたまま、のどのつまったような声で叫びだしたのである。その声は、いかにも見物人の胸を震わせるような、悔悛の情きわまった声であった。
 「堪忍してくんなせえ。堪忍してくんなせえ。坊ちゃん、あっしゃ、なにも怨みつらみがあってやったんじゃねんでござんす。ただもう、逃げてえばっかりに、ついこわくなって、無我夢中でやった仕事なんで。…あっしゃ悪い野郎でござんす。極悪人でござんす。あっしゃ罪のかどで、これから死にに行くところでござんす。あっしゃ死にてえんです。よろこんで死にます。だから、坊ちゃん……どうか可哀そうな野郎だとおぼしめしなすって、あっしのこたあ、勘弁してやっておくんませえまし。お願えでござんす。……」
 子どもは、そういわれても、やはり黙って泣いていた。警部は、震えている罪人を引き起した。それまで唖のように声を呑んでいた見物の群れは、そのときふたりを通すために、左右に道を分けた。と、いきなり群集全体が、きゅうにしくしくすすり泣きをはじめだしたのである。わたくしは、色の黒いその附き添いの警部が、わたしの側を通り過ぎたとき、かつて自分が見たことのないものを、いや、だれも見たことのないものを −−おそらく、この先、二どと見ようと思っても見られないものを −−日本の警官の涙をそこに見たのであった。」

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罪人の涙と被害者の息子の涙、警部の涙。
posted by Fukutake at 08:15| 日記