「本居宣長(上)」 小林秀雄 新潮文庫
もののあはれ p140〜
「さて、ここで「源氏物語」の味読による宣長の開眼に触れなければ、話は進むま い。開眼という言葉を使ったが、実際、宣長は、「源氏」を研究したというより、「源氏」 によって開眼したと言った方がいい。彼は、「源氏」を評して、「やまと、もろこし、いに しへ、今、ゆくさきにも、たぐふべきふみはあらじとぞおぼゆる」(「玉のおぐし」二の巻) と言う。異常な評価である。冷静な研究者の言とは受取れまい。率直は、この人の常 であるから、これは存のままの彼の読後感であろう。彼は「源氏」を異常な物語と読ん だ。これは大事なことである。宣長は、楫とりの身になった自分の問いに、「源氏」は 充分答えた、と信じた。有りようはそういう事だったのだが、問題は、彼自身が驚いた 程深かったのである。 「土佐日記」という、王朝仮名文の誕生のうちに現れた「もののあはれ」という片言 は、「源氏」に至って、驚くほどの豊かな実を結んだ。彼は、「あはれ」の用法を一つ一 つ綿密に点検はしたが、これを単に言語学者の資料として扱ったわけではないのだ から、恐らく相手は、人の心のように、いつも問う以上の事を答えたのであろう。ここで も、彼自身の言葉を辿ってみる。ー「すべて人の心といふものは、からぶみに書るご と、一トかたに、つきぎりなる物にはあらず、深く思ひしめる事にあたりては、とやかく やと、くだくだしく、めめしく、みだれあひて、さだまりがなく、さまざまのくまおほらかな る物なるを、此物語には、さるくだくだしきくまぐままで、のこるかたなく、いともくはし く、こまかに書きあらはしたること、くもりなき鏡にうつして、むかひたらぬがごとくに て、大かた人の情(ココロ)のあるやうを書るさまは、ー」という文に、先にあげた「やま と、もろこし」云々の言葉がつづくのである。 してみると、彼の開眼とは、「源氏」が、人の心を「くもりなき鏡にうつして、むかひた らむ」が如くにみ見えたという、その事だったと言ってもよさそうだ。その感動のうち に、彼の終生変らぬ人間観が定着したー 「おほかた人のまことの情といふ物は、女 童のごとく、みれんに、おろかなる物也、男らしく、きつとして、かしこきは、実の常にあ らず、それはうはべをつくろひ、かざりたる物也、実の心のそこを、さぐりてみれば、い かほどかしこき人も、みな女童にかはる事はなし。それをはぢて、つつむとつつまぬと のたがひめ計(ばかり)也」(「紫文要綱」巻下)。」だが、そこまで話を拡げまい。これ は、いずれ触れなければならない。」
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みな人は女童(めのわらは)なり。
2021年06月17日
人のこころ=もののあはれ
posted by Fukutake at 09:38| 日記