2021年06月16日

言霊(ことだま)

「本居宣長補記 II」 小林秀雄 新潮文庫 平成四年

宣長とベルグソンの本質的類似 p388〜

「...私は若いころから、ベルグソンの影響を大変受けて来た。大体言葉というものの 問題に初めて目を開かれたのもベルグソンなのです。それから後、いろいろ言語に関 する本は読みましたけれど、最初はベルグソンだったのです。あの人の『物質と記憶』 という著作は、あの人の本で一番大事で、一番読まれてない本だと言っていいが、そ の序文の中で、こういう事が言われている。自分の説くところは、徹底した二元論であ る。実在論も観念論も学問としては行き過ぎだ、と自分は思う。その点では、自分の 哲学は常識の立場に立つと言っていい。常識は、実在論にも観念論にも偏しない。中 間の道を歩いている。常識人は、哲学者の論争など知りはしない。観念論や実在論 が、存在と現象とを分離する以前の事物を見ているのだ。常識にとっては、対象は対 象自体で存在し、而も私達に見えるがままの生き生きとした姿を自身備えている。 これは「image(イマージュ)」だが、それ自体で存在するイマージュだとベルグソン は言うのです。この常識人の見方は哲学的にも全く正しいと自分は考えるのだが、哲 学者が存在と現象を分離してしまって以来、この正しさを知識人に説く事が非常に難 しい事になった。この困難を避けなかったところに自分の哲学の難解が現れて来る。 また世人の誤解も生ずる事になる、と彼は言うのです。 ところで、この「イマージュ」という言葉を「映像」と現代語に訳しても、どうもしっくりこ ないのだな。宣長も使っている「かたち」という古い言葉の方が、余程しっくりとするの だな。 『古事記伝』になると、訳はもっと正確になります。性質情状と書いて、「アルカタチ」 とかなを振ってある。「物」に「性質情状(アルカタチ)」です。これが「イマージュ」の正 訳です。大分前に。ははァ、これだなと思った事がある。ベルグソンは、「イマージュ」 という言葉で、主観的でもなければ、客観的でもない純粋直接な知覚経験を考えてい たのです。更に、この知覚の拡大とか深化とか言っていいものが、現実に行われてい る事を、芸術家の表現の上に見ていた。宣長が見た神話の世界も、まさしくそういう 「かたち」の知覚の、今日の人々には思いも及ばぬほど深化された体験だったのだ。 この純粋な知覚経験の上に払われた、無私な、芸術家によって行われる努力を、宣 長は神話の世界に見ていた。私はそう思った。『古事記伝』には、ベルグソンが行った 哲学の革新を思わせるものがあるのですよ。私達を取りかこんでいる物のあるがまま 「かたち」を、どこまでも追うという学問の道、ベルグソンの所謂「イマージュ」と一体と なるヴィジョン」を掴む道は開けているいるのだ。たとえ、それがどんなに説き難いも のであってもだ。これは私の単なる思い付きではない。哲学が芸術家の仕事に深く関 係せざるを得ないというところで、『古事記伝』とベルグソンの哲学の革新との間に は、本質的なアナロジーがあるのを、私は悟った。宣長の神代の物語の注釈は哲学 であって、神話学ではない。」
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肉声に宿る言霊(コトダマ)
posted by Fukutake at 08:22| 日記