「幸・不幸の分かれ道ー考え違いとユーモア」 土屋賢二 東京書籍 2011年
本書の帯:この本を読めば、幸福にはなれませんが、不幸になる可能性はだいぶ減 ります。たぶん。
哲学は幸福と無関係ではない p12〜
「ぼくは哲学を専門に研究しています。哲学で取りあげる問題は、「存在とは何か」、 「時間とは何か」、「私とは何か」、「いかに生きるべきか」、「人生は無意味か」、「善と は何か」といった問題からはじまって、ぼくがこのあいだ書いた本で取りあげた「夢の 中の看護婦さんが出てきたとする。どうして裸なのに看護婦さんと分かったのか」とい う問題までさまざまです。そういった問題を考えていますが、哲学の問題なら何でも研 究しているとも言えます。哲学的な問題はどれも、多くの問題と絡み合っているので、 一つの問題だけを研究するということは実質上不可能なんです。 哲学の目的はあくまでも問題を解決することです。幸福になるために哲学をするわ けではないし、心の安らぎや安定を得るために哲学をやるわけでもありません。心の 安らぎを得るためなら、哲学よりも催眠術や薬を使った方が手っ取り早いと思いま す。 哲学をやっているのは、他の学問と同じく、真理の探求です。哲学の問題に対する 正しい答えを求めているんです。だから、哲学の研究をしても、幸福になる保証も、安 心が得られる保証もありません。 哲学は幸福や安心を得ることを目標にしているわけではありませんが、まったく無 関係というわけでもありません。なぜかというと、哲学はあらゆる事柄を厳密に考える 学問ですが、人間は厳密にものを考えないために不幸になってしまうことが多いから です。 どうしてものの考え方で不幸になるのかと思うかもしれませんが、たとえば、「指は 六本なくてはならない」と思い込んでいたら、自分の指が五本しかないことに悩むので はないでしょうか。こういう悩みは、誤った思い込みを捨てれば解消します。 あるいは、「人生の目標をもたなくてはならない」とか「人間の価値は能力で決まる」 と思っていれば、これといった目標をもっていない人や能力のない人は不幸だと感じ るでしょう。あるいは、「人生は無意味だ」と思っていれば幸福な人生を送ることはでき ないでしょうし、「いかに生きるべきかという問題には正解がある」と思っているのに正 解が分からなければ、自分が幸福だと確信がもてないはずです。もしそういう考えが 間違っていたら(ぼくは間違っていると思いますが)、考え違いのために不幸になって いると言うしかありません。
哲学は疑う 同じ境遇でも、ものの考え方が違うだけで幸福だと感じる人と不幸だと感じる人がい ます。極端に言えば、ふつうなら考えられないほどの不幸な境遇にあるのに幸福そう
にしている人がありえます。そういう人は少数ですが、実際に存在しています。ものの 考え方で幸福か不幸が決まることがあるのです。 哲学で、色々な問題を考えるとき一番警戒しなくてはならないのは、無意識のうちに もっている誤った先入観です。だから哲学では、どんなに当たり前に見えることでも、 本当にそれが正しいのかどうかを疑います。」
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人間は常に考え違いをする。だから常に疑わなければならない。