2021年06月08日

素朴な心と世界認識

「本居宣長 下巻」 小林秀雄 新潮文庫 平成四年

言霊 p228〜

「「伝説(ツタエゴト)」は、古人にとっては、ともどもに秩序ある生活を営む為に、不 可欠な人生観ではあったが、勿論、それは人生理解の明瞭な形を取ってはいなかっ た。言わば、発生状態にある人生観の形で、人々の想像裡に生きていた。思想という には単純すぎ、或は激しすぎる、あるがままの人生の感じ方、と言ってもいいものが あるだろう。目覚めた感覚感情の天真な動きによる、その受取り方があるだろう、誰も がしている事だ。この受取り方から、直接に伝説は生まれて来たであろうし、又、生ま れ出た伝説は、逆に、受取り方を確かめ、発展させるようにも働きもしたろう。宣長が 入込んだのは、そういう場所であった。 上代の人々の「心ばへ」を言う時、そういう場所を、彼が考えていたとすれば、古人 の「心ばへ」と言っても、真淵の言った意味とは余程違ったものだったわけだし、又、こ れを言うのに、今日の意味合で、主観的とか客観的とかいう、惑わしい言葉に躓いて はならない。古人の素朴な人情、人が持って生れて来た「まごころ」と呼んでもいいと した人情と、有るがままの事物との出会い、「古事記伝」のもっと慎重で正確な言い方 で言えば、ー 「天地はただ天地、男女(メヲ)はただ男女、水火(ヒミヅ)はただ水火」 の「おのおのその性質情状(アルカタチ)」との出会い、これらが語られるのを聞いて いれば、宣長には充分だった。

 そういう次第で、宣長が「上古事伝へのみなりし代の心」を言う時、私達が、子供の 時期を経て来たように、歴史にも、子供の世があったと言う通念から、彼は全く自由で あった。どんな昔でも、大人は大人であったし、子供は子供だったと、率直に考えてい れば足りた。自分等は余程利口になった積りでいる今日の人々には、人生の基本的 構造が、解りにくいものになった、と彼は見ていたのである。 そう言う彼の考えからすれば、上古の人々の生活は、自然の懐に抱かれて行われ ていたと言っても、ただ、子供の自然感情の鋭敏な動きを言うのではない。そういう事 は二の次であって、自分等を捕えて離さぬ、輝く太陽にも、青い海にも、高い山にも 宿っている力、自分等の意志から、全く独立しているとしか思えない、計り知れぬ威 力に向い、どういう態度を取り、どう行動したらいいか、「その性質情状」を見究めよう とした大人達の努力に、注目していたのである。これは、言霊の働きを俟たなけれ ば、出来ない事であった。そして、この働きも亦、空や山や海の、遥かに見知らぬ彼 方から、彼等の許に、やって来たと考える他はないのであった。神々は、彼等を信じ、 その驚くべき心を、彼等に通わせ、君達の、信ずるところを語れ、という様子を見せた であろう。そういう声が、彼等に聞こえて来たという事は、言ってみれば、自然全体の うちに、自分達は居るのだし、自分等全体の中に自然が在る、これほど確かな事はな いと感じて生きて行く、その味いだったであろう。」

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posted by Fukutake at 07:55| 日記