2021年06月07日

直観

「思索と体験」西田幾太郎 著 岩波文庫

ベルグソンの哲学的方法論 p125〜

「哲学即ち絶対の学問というのは如何なるものであろうか。ベルグソンに従えば、物 には二つの見方がある。一つは物を外から見るのである。或一つの立脚地から見る のである。それで、その立脚地によって見方も変わってこなければならない。立脚地 が無数にあることができるから、見方も無数にあるはずである。またかく或立脚地か ら物を見るというのは物を他との関係上から見るのである、物を他と関係する一方面 だけ離して見るのである、即ち分析の方法である。分析ということは物を他物によって 言い表すことで、此方の見方はすべて翻訳である、符号Symbolによって言い現わす のである。もう一つの見方は物を内から見るのである。着眼点などというものは少しも ない、物自身になって見るのである、即ち直観 Intuitionである。従ってこれを言い現 わす符号などというものはない、いわゆる言絶の境である。右二種の見方の中には 第一の見方ではいかに精緻を極めても、畢竟物の相対的状態を知るに過ぎぬ、到底 物其物の真状態を知ることは出来ない、ただ第二の方法のみこれによって物の絶対 的状態に達することはできるのである 例えば空間における一物体の運動ということでも、我々はこれを種々の立脚地から 見ることができ、また種々の方法で言い現わすことができるであろうが、そは皆外か ら見たので、ただその相対的状態を知るにすぎない。運動其者の絶対的状態を知る には、我々は動いた物の内心があるように見て、これと同感し、その状態に自分を置 いて見るのである。相対と絶対とを比較すると、恰も或市を種々の方向からとった写 真と市其者の実見との差異の如きものである。写真を幾枚あつめたとて実物の知識 のようにはならぬ。また例えば希臘語を知りおる者がホーマーの詩をよめば単純なる 一印象を留めるのみであるが、さてこれを希臘語を知らぬ者に説明して聞かそうとす ると如何に説明しても説明しつくすこができぬ。かかる絶対的状態は内より直観する にあらざれば到底これを知ることができぬ。 科学というのは分析の学問である、符号によって説明するのである。科学の中にて 最も具体的といわれておる生理学の如きものすら、単に生物の機関の外形を見て、 その形を比較し、その機能を論ずるまでである、終始有形的符号によって見ているの である。哲学はこれに反して直観の学問である、物自身になって見てその絶対的状 態を捕捉するのである、符号を要しない学問である。」
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posted by Fukutake at 09:34| 日記