2021年06月04日

訓読みの努力

「新訂 小林秀雄全集 第十三巻」本居宣長 新潮社 昭和五十四年

漢文訓讀 p276〜

「言語がなかつたら、誰も考へる事も出来まいが、讀み書きにより文字の 扱ひに通じるやうにならなければ、考への正確は期し得まい。動き易く、消え 易い、個人々々の生活感情にあまり密着し過ぎた音聲言語を、無聲の文字 で固定し、整理し、保管するといふ事が行はれなければ、概念思考の發達 は望まれまい。ところが、日本人は、この所謂文明の第一歩を踏み出すに 當つて、表音の爲の假名を、自分で生み出す事もなかつたし。他國から受 取つた漢字をといふ文字は、アルファベット文字ではなかつた。圖形と言語 とが結合して生まれた典型的な象形文字であつた。この事が、問題をわかり にくいものにした。 漢語の言靈は、一つ一つの精緻な字形のうちに宿り、蓄積された豐かな文 化の意味を語つてゐた。

日本人が、自國語のシンタックス*を捨てられぬまま に、この漢字獨特の性格に隨順したところに、訓読といふ、これも亦獨特な 讀み方が生まれた。書物が訓讀されたとは、尋常な意味合では、音讀も黙 讀もされなかつたといふ意味だ。原文の持つ音聲なぞ、初めから問題では なかつたからだ。眼前の漢字漢文の形を、眼で追ふことが、その邦譯語邦 譯文を、其處に想ひ描く事になる、さういふ讀み方をしたのである。これは、 外國語の自然な受入れ方とは言へまいし、勿論、まともな外國語の學習でも ない。このやうな變則的な仕事を許したのが、漢字獨特の性格だつたにせ よ、何の必要あつて、日本人がこのやうな作業を、進んで行つたかを思ふな ら、それは、やはり彼我の文明の水準の大きな違ひを思はざるを得ない。 向うの優れた文物の輸入といふ、實際的な目的に從つて、漢文も先づ受 取られたに相違なく、それには、漢文によつて何が傳達されたのか、その内 容を理解して、應用の利く智識として吸収しなければならぬ。その爲には、 宣長が言つたやうに、「書籍と云ふ物」を「此間の言もて讀みなら」ふ事が捷 径だつた、といふわけである。無論、捷径とはつきり知つて選んだ道だつた とは言へない。やはり何と言つても、漢字の持つ嚴しい顔には、壓倒的なも のがあり、何時の間にか、これに屈従してゐたといふ事だつたであらう。屈 従するとは、壓倒的に豐富な語彙が、そつくりそのままの形で、流れ込んで 来るに任せるといふ事だつたであらう。それなら、それぞれの語彙に見合 ふ、凡その意味を定めて、早速理解のうちに整理しようと努力しなければ、 どうにもなるものでもない。此の、極めて意識的な、知的な作業が、漢文訓 讀による漢字學習といふものであつた。これが、わが國上代の教養人といふものを仕立てあげ、その教養の質を決めた。そして又これが、日本の文明 は、漢文明の模倣で始まつた、と誰も口先きだけで言つてゐる言葉の中身 を成すものであつた。」

シンタックス* 文法や構文規則などのルール

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posted by Fukutake at 08:14| 日記