2021年06月02日

死の恩寵

「ココロとカラダを超えて ーエロス 心 死 神秘ー」 頼藤和寛 ちくま文庫 1999年

死の功徳 p171〜

「生物には「死の戦略」なるものがあって、各発育段階の死亡率はそれなりの適応 的意味を有している。限られた生息領域と生活資源、および分布密度が生殖可能期 間と組み合わされて厳密に数学的な解析を許す合理性でその種(スピーシーズ)の 死をデザインしている。多くの個体には死んでもらわねばならないのである。そして全 ての個体が最後に死なねばならない。さもなければ種全体が亡びる。この本体が亡 びないためには、たくさんの幼生が間引きされ、かつ生殖期を越えた成体にも増大し ていく死亡率を課さねばならない。 老年の意義とは、人間社会内部でこそあれこれのメリットを考え得るにせよ、生物学 的には用済みの娑婆塞ぎ以上のものではない、それどころか食物と酸素を一人前に 費消する危険な存在である。 人間は社会と文化とヒューマニズム、そして余剰の生産力のおかげで姥捨山を復 活させずにすんでいる。しかし、これも多くの老人が七、八十歳でポロポロ死んでいく からこそ今日なんとか保てている制度なのだ。実際、不老長生が実現するなら、まさ にその時こそ人類の危機であろう。 個人的に考えても、もし我々が永久の生を約束され、現状の我々の心性がそのま ま永生するとすれば、予想以上に厄介である。一体、終わりなき人生に耐えられる何 人(なんびと)がいよう? それは気の遠くなるような退屈である。 我々は、畢竟、死によって脅かされ、かつ救われているのだ。死後永遠の存続を熱 望する人々は近視眼的である。

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なるほど死は我々を恐れさせる。そして人は恐れさせない限り何かをしないし、何か をやめない。この「何か」とは人間のありとあらゆる愚行を指す。ところで、死の前にお いて人間に愚行以外の何ができるというのか?

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現代人は神を信じない。なぜなら、人間を相手に愛したり怒ったりする神はあまりに 人間的で信ずるに足りないし、逆に人間離れした超越的な神であれば信じても信じな くても一緒である。 かくて倫理の拠りどころは失われた。しかし、幸いなことに死が残っている。それは 人間が発明したものではない。えこひいきもなければ愛憎もなく、完全に超越的であ る。もちろん昔の神のように我々と契約を結んだりいろいろ便宜や試練を与えてはく れないだろうが、つねに我々一人一人の前に立ちふさがり胸を貸してくれる。 死は、我々が在るかぎり決して手の届かぬところにあって、しかも常時我々に問い かけている ー 汝の生はそれでよいのか、と。 この問いかけに応えつつ生きることが、今日の、そしておそらく将来の倫理を基礎づ ける。もし我々が、日常の幻惑や面妖な思い込みによって自らを欺かないならば。

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死は、我々にとって全く無関係なものかもしれない。しかし、死は一つの格率であ り、倫理的要請である。それはなければならない。」
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死は恩寵
posted by Fukutake at 08:02| 日記