2021年06月01日

「あはれを知る」

「新訂 小林秀雄全集 第十三巻」本居宣長 新潮社 昭和五十四年

源氏物語 p215〜

「彼(本居宣長)の「源氏」論の課題は、「あはれ」とは何かではなく、「あはれを知る」とは何かであつた、とは既に述べたところだ。「人の實の情をしるを、物の哀(あはれ)をしるといふなり」(紫文要領、巻下)。「人の實の情」は知り難い。こんなに不安定なものはないからだ。「感は動也といひて、心のうごくこと」(玉のをぐし、二の巻)だからだ。ところで、宣長は次のやうな事に注目してゐる。「心に深く感(アハレ)とおもふ事あれば、かならず長息(ナガイキ)をする故に、其意より轉じて、物に感ずる事を、やがて奈宜久(ナゲク)とも奈我牟流(ナガムル)ともいふ也」「然るを、千載新古今のころよりして、もはら物を見る事にのみいへるは、又其意を一轉せる物也」「物思ふときは、常よりも、見る物きく物に、心とまりて、ふと見出す雲霞木草にも、目のつきて、つくづくと見らるるものなれば、かの物おもふ事を、奈我牟流といふよりして、其時につくづくと物を見るをも、しかいふ事にはなれるなるべし」(石上私淑言、巻一)

「あしわけ小舟」では、この場合、見るとは「觀の字などの心なり」と言つてゐる。それとは氣づかぬ言葉の働きのうちにも、歌道の極意は現れてゐる。長息するといふ意味の「ながむる」が、つくづくと見る意味の「ながむる」に成長する、それがそのまま歌人が實情を知る、その知り方を現はす、と宣長は見るのである。歌道の極意は、「物のあはれを知る」ところにあるのだが、それは、情に溺れる「あだなる事」にも、溺れまいとして分別を立てる「まめなる事」にも、全く關係がないとい
ふ難解な考へが、彼の「源氏」論にあつた事も、既に書いたが、それを、ここで思ひ出して貰つてもよいと思ふ。堪へ難い悲しみを、行動や分別のうちに忘れる便法を、歌道は知らない。悲しみを、そつくり受納れて、これを「なげく」といふ一と筋、悲しみを感ずるその感じ方の工夫といふ一と筋を行く。誰の實情も、訓練され、馴致されなければ、その人のはつきりした所有物にはならない。
わが物として、その「かたち」を「つくづくと見る」事が出来る對象とはならない。私達が理解してゐる「意識」といふ言葉と、宣長は使つた意味合での「物」といふ言葉を想像してみてもよいであらう。」

-----
posted by Fukutake at 08:13| 日記