「カメレオンのための音楽」 トルーマン・カポーティ 野坂昭如訳 ハヤカワ文庫 2002年
「ジョーンズ氏」 p37〜
「一九四五年の冬、私はブルックリンの下宿屋で数ヶ月暮らした。建物自体はかなり 古びていたが、土地柄はまあまあ、部屋の調度も整っていて、家主は行かず後家の 姉妹二人、こまかく心くばりして、万事こざっぱりした住い。 隣はジョーンズ氏、私はいちばん狭い部屋、彼のところはもっとも広く、しかも陽当た りがいい。まったく外へ出ないジョーンズ氏にとって、これはなによりのことであろう。 彼の食事やら、買物、それに洗濯など、家事一切は、かなりいい歳の家主姉妹が面 倒をみていた。彼の部屋には、来客が多かった。ならして日に五、六人、老若男女さ まざまなのが、時間かまわずやって来る。彼はべつにヤクのバイ人でも、怪しげな占 い師というわけでも、もちろんない。連中は、ただジョーンズ氏としゃべるためだけに 足を運び、どうも見たところ。相談をもちかけるのか、アドバイスをもらうのか、なにが しかの金を払うらしい。そうでなきゃ、彼の暮らしは成り立たないはず。 今でも、時に、私もジョーンズ氏と話をかわしておけばよかったと、残念に思う。彼は 四十歳前後で、なかなかの男っぷり、体つきは引きしまり、髪は黒。顔にちょっとした 特徴があって、色白、面長、高い頬骨、その左に、くっきりと星形 をなした、赤い生まれつきの痣が浮かぶ。常に金縁の黒眼鏡をかけていた。彼は目 が不自由で、さらに足も悪い。大家の話だと、子供の頃、事故にあい、松葉杖なしで は歩けないらしい。彼は身だしなみがよく、しわ一つないダークグレー、または紺の三 つ揃えを着こみ、ネクタイの趣味もなかなかのもの、まずウォール街のオフィスづとめ といったいでたち。 ただ、すでに述べたことだが、彼は下宿から一歩の出ようとせず、ただもう、明るい 部屋の、快適な椅子に坐って、お客の来訪を待つだけ。まずはふつうの市民と思える 人たちが、なぜ、ジョーンズ氏に面会を求め、話しこむのか、なんとも不思議だった が、私は私で、自分の頭の蝿を追うのにキリキリ舞い、それ以上の詮索もならぬ。多 分、客たちは、ジョーンズ氏のやさしい人柄、包容力に惹かれ、すっかり信頼しきっ て、人に言えない悩みを打ち明け、苦しい胸の内を聞いてもらう、まあ、牧師、セラピ ストみたいなものと、私はふんでいた。 彼は下宿でただ一人、専用の電話をひき、これがまた時をかまわず鳴り立てる。特 に深夜、早朝に多かった。
私はやがてマンハッタンに移り、しばらく後、預かってもらっていた本をとりにこの下 宿げ出かけた。レースのカーテンを掛けた客間で家主の姉妹二人がお茶とケーキで もてなしてくれ、話のついでに、ジョーンズ氏がどうしているかをたずねてみた。 二人とも目を伏せていたが、姉さんの方が何となく具合悪そうに、咳ばらいなどし て、「それはあの、警察の方にー」そして妹が、「わたしたち、捜索願を出しましたの よ、警察に」と言葉を添えた。「先月の、えーと二十六日前に鳴りますけど、妹がいつ ものように、朝食をお運びしたら、彼、お部屋にいませんの。それっきり何もかもそのままで。彼、いなくなっちゃいました」「そりゃまた、不思議ですね」「本当に、目はみえ ない、脚も不自由っていうのに、どうなすったんでしょうかねえ」
十年後 さて、今は凍てつくモスクワの十二月の午後、私は地下鉄に乗っていて、車内に客 は数えるほど。私と向かい合って坐る男は、厚いオーバーに深いブーツ、毛皮の帽子 をかぶって、とても澄んだ青い目の持ち主だった。 ふと、ひらめくものがあり、彼をあらためてよく見た。黒眼鏡こそかけていないが、面 長のある特徴ある顔立ち、なかでも、高い頬骨に浮き出す、くっきりした星形の痣、間 違いない。 通路をよぎり、彼に話しかけようとした丁度その時、電車は駅に走りこんだ。ジョーン ズ氏はすっと腰を上げると、しっかりした足どり、しかも大股で、車両を降り立つ。ぴ しゃりとドアが閉まった。」
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