「柳田國男全集 第二十一巻」 筑摩書房 1997年
海上の道 扶桑伝説 p400〜
「後期仏教の西方浄土とは対立して、対岸大陸には夙くから、東方を憧憬する民間信仰が普及して居た。いはゆる扶桑伝説は即ち是で、多分は太陽の海を離るる光景の美しさ貴さから、導かれたものの如く私たちは推測して居る。秦の徐福が童男女三百人をつれて、仙薬を求めて東方の島に渡ったといふことは世に知られ我邦でも熊野の新宮がその居住地であったとか、或は八丈島の人の始めが彼らでは無かったらうかとか、いふ類の雑説が、色々と発生して居るけれども、それは何れもあちらの記録を読んでから後に、考へ出したことだからちつとも当てにならない。ともかくも本国に於いては永遠に行方知れずであり、この遠征によって彼我の交通が、開けたことにはなって居ないのである。
欧陽脩の日本刀の歌は、日本にも夙く伝はって居て、
徐福往くとき書未だ燬けず
逸史百篇今なほ存す 云々
という句などは、私たちもまた記憶するが、こちらの歴史に引比べて見ると、王仁の千字文などよりは是はずつと前のことで、明らかに詩人の空想であったことがすぐに判る。太平の天子が人の世の歓楽に飽き満ちて、そろそろと不老不死の術を恋い焦がれ、終に道士の言に欺かれて無益の探求を企つるに至ったなどは、言わば支那古代の小説の一つの型であって、たまたま其中の特に美しく、且つ奇抜にして人心に投じたものが、永く記伝せられて世に残ったに過ぎぬことは、今日はもう疑ふ人もあるまい。ただそういふ様々の趣向の取合わせの中に於いて、今の言葉でいふならば自然主義、即ち時代の人々が楽しみ聴いて、さもと有りなんと思ひ、又全く無かったこととも言われぬと、心に刻み付けて居たものを拾い上げて見るならば、或いはさういふ中から逆に人類の現実の移動を支配した、古代の社会力とも名づくべきものが、少しづつは窺はれて来るのではないかと思ふのみである。
たとへば東方の、旭日の昇って来る方角に、目に見えぬ蓬莱又は常世といふ仙郷の有ると思ふ考へ方は、この大和島根を始めとして、遠くは西南の列島から、少なくとも台湾の蕃族の一部までに、今日も尚分布して居る。槎(いかだ)に乗って東の海に遊ばんとか、又は東海を踏んで死すあらんのみとか、半ば無意識にも之を口にする人が多かったのは、必ずしも東だけに海をもった大陸の、経験とも言われぬやうに思ふ。いはゆる徐福伝説の伝播と成長とには、少なくとも底には目に見えぬ力があつて、暗々裡に日本諸島の開発に、寄与して居たことは考へられる。」
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