2021年05月28日

下克上

「本居宣長(上)」 小林秀雄 新潮文庫

p80〜

「戦国時代を一貫した風潮を、「下克上」と呼ぶ事は誰も知っている。言うまでもなく、これは下の者が上の者に克つという意味だが、この言葉にしても、その簡明な言い方が、その内容を隠す嫌いがある。試みに、「大言海」で、この言葉を引いてみると、「此語、でもくらしいトモ解スベシ」とある。随分、乱暴な解と受取る人も多かろうと思うが、それも、「下克上」という言葉の字面を見て済ます人が多いせいであろう。「戦国」とか「下克上」とかいう言葉の否定的に響く字面の裏
には、健全な意味合いが隠れている。恐らく、「大言海」の解は、それを指示している。歴史の上で、実力が虚名を制するという動きは、極めて自然な事であり、それ故に健全なと呼んでいい動きだが、戦国時代は、この動きが、非常な速度で、全国に波及した時代であり、為に、歴史は兵乱の衣をまとわざるを得なかったが、それも現代人の戦争の概念からすれば、まるで仲間喧嘩のようなものだった。この動きの兆候が現れ始めた南北朝時代に、いち速く「下克上」という言葉を発明して、落首の上に示した。恐らくこの無邪気な発想には、自棄的なものも、頽廃的なものもなかったのだが、この言葉の、見たところ嘲笑的な色合の裏に、言わば、どんな尤もらしい言葉にも動じない、積極的な意味合が育って来るには、長い時間を要したのである。なるほど武力は、「下克上」の為には一番手っとり早い手段だったがこの時代になると、武力
は、もはや武士の特権とは言えなかったのであり、要するに馬鹿に武力が持てたわけでもなく、武力を持った馬鹿が、誰にも克てた筈もなかったという、極めて簡単な事態に、誰も処していた。武士も町人も農民も、身分も家柄も頼めぬ裸一貫の生活力、生活の智慧から、めいめい出直さねばならなくなっていた。

日本の歴史は、戦国の試煉を受けて、文明の体質の根底からの改造を行った。当時のどんな優れた実力者も、そんなはっきりした歴史の展望を持つ事は出来なかったであろうが、その種の意識を、まるで欠いていたような者に何が出来るわけもなかった事は、先ず確かな事であろう。乱世は「下克上」の徹底した実行者秀吉によって、一応のけりがついた。尾張の名もない下民から身を起こした男が、関白までのし上がったとは、前代未聞の話であるが、それよりも、当時の人々は、恐らくこれを、何処にも腑に落ちぬものの隠されていない、いかにも尤もな話として納得したに相違ない、それを考えてみる方が興味がある。この人間の出世物語が、いろいろに形を変え、今日に至るまで、多くの愛読者を持っているのも、実力で実名を得た人物の努力の、暗さも女々しさ雑えぬ一貫性、その魅力の現実性には、誰にでも大変わかり易いものがある
からであろう。」

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下克上=デモクラシー
posted by Fukutake at 08:25| 日記