2021年05月21日

神隠し

「遠野物語 山の人生」 柳田国男 著 岩波文庫
 
山の人生 神隠しのこと p156〜

 「不思議な事情からいなくなってしまう者は、決して少年小児ばかりではなかった。数が少なかったろうが成長した男女もまた隠され、そうして戻ってくる者もわずかであった。ただし壮年の男などはよくよくの場合でないと、人はこれを駈落ちまたは出奔と認めて、神隠しとはいわなかった。神隠しの特徴としては永遠にいなくなる以前、必ず一度だけ親族か知音の者にちらりその姿を見せるのが法則であるように、ほとんどいずれの地方でも信じられている。盆とか祭の宵とかの人込みの中で、ふと行きちがって言葉など掛けて別れ、おや今の男はこのごろいないといって家で騒いでいたはずだがと心づき、すぐに取って返して跡を追うて見たが、もうどこへ行っても影も見えなかった、という類の例ならば方々に伝えられている。これらは察するところ、樹下にきちんと脱ぎそろえた履物などと一様に、いかに若い者が気紛れな家出をする世の中になっても、なおその中に正しく神に召された者がありうることを我々の親たちが信じていようとした、努力の痕跡とも解しえられぬことはない。

 『西播怪談実記』という本に、揖保郡新宮村の民七兵衛、山に薪採りに行きて還らず、親兄弟歎き悲しみが、二年を経たる或る夜、村のうしろの山にきて七兵衛がもどったぞと大声に呼ばわる。人々悦び近所一同山へ走り行くに、麓に行きつくころまではその声がしたが、登ってみると早何処にもいなかった。天狗の下男にでもなったものかと、村の内では話し合っていたが、その後この村から出て久しく江戸にいた者が東海道を帰ってくる途で、興津の宿とかで七兵衛に出逢った。これも互いに言葉を掛けて別れたが家に帰って聴くとこの話であった。それからはついに風のたよりもなかったということである。すなわちたった一度でも村の山にきて呼ばわらぬと、人はやはり駈落ちと解する習いであった故に、自然にこのような特徴が出てきたのである。…

 女の神隠しにはことに不思議が多かった。これは岩手県の盛岡でかつて按摩から聴いた話であるが今からもう三十年も前の出来事であった。この市に住んで行商をしていた男、留守の家には女房が一人で或る日の火ともしごろに表の戸をあけてこの女が外に出て立っている。ああ悪い時刻に出ているなと、近所の人たちは思ったがそうだが、果たしてその晩からいなくなった。亭主は気ちがいのようになって商売も打棄てて置いてそちこちと捜しまわった。もしやと思って岩手山の中腹の網張温泉に出かけてその辺りを尋ねていると、とうとう一度だけ姿を見せたそうである。やはり時刻はもう暮近くに、なにげなしに外を見たところが、宿からわずか隔たった山の根笹の中に、腰より上を出して立っていた。すぐに飛びだして近づき捕らえようとしたが、見えていながらだんだんと遠くになり、笹原づたいに峯の方へ影を没してしまったという。」

----
他のブログを見る : http://busi-tem.sblo.jp

posted by Fukutake at 13:23| 日記