「アジア史論」 宮崎市定 中公クラシックス 2002年
十字軍と蒙古 p290〜
「十字軍が西方社会に与えたる政治的、社会的、思想的影響は、たとえ適当な重味をもってでないにしても、これまで既に西方史家によって説かれきたったところである。ただそれが東方に及ぼしたる影響はかつては唱導されしことを聞かぬが、事実においては東亜もまた西欧が受けしに比して勝るとも劣ることのなき影響を蒙っているのである。
十字軍の主戦場が東西洋の孔道を扼するシリアであって、断続しながらも百七十余年にわたり、ここを舞台として血腥き決戦が演ぜられたことは、東西の交通貿易を阻害すること甚大であった。サラジンの登場により、エジプトが反十字軍の要塞となり、南方紅海経由の交通路も閉塞せられた。残る交通路はただ一つ、北方に迂回し、黒海の北より中央アジアに出て、中国及びインドに通ずる路が開かれているのみである。東ローマは早くよりこの交通路に着目し、遊牧トルコ民族の君主と領解を遂げんとしたが、十分なる成功を見ないでしまったらしい。十字軍の最中においてイタリアの商業国ヴェニスは、自ら裏面にて扇動したる騒擾が、意外に蔓延して収拾するところを知らず、自己の東方貿易が断絶に帰せんことを憂慮するのあまり、苦肉の計を用い、第五十十字軍を導きて東ローマ帝国の首都コンスタンチノポリスを占領せしめた。されどその結果、彼等の隊商ははたして黒海北部より中央アジアにかけての遊牧トルコ民族の間を経て、中国・インドに到達し得たりしや否やは疑わしい。しかしながら、この方面の通してヨーロッパが中国・インドの物資を間接に獲得し得たる事実は疑うべくもない。その証拠は、中央アジアより東方中国へ、南方インドへの分岐点に当たるサマルカンドを中心とする河間(ソグディアナ)地方が。この頃にいたって前古未曾有の繁栄を来したる事実である。その直北、草原地帯に放浪する遊牧トルコ民族が、この形勢をみて南方侵入の魅惑を禁じ得なかったとともに。さらに強く同じ衝動を感じたるは、トルコ族に隣して住居する最も未開なる蒙古民族であったのである。
極北の寒冷なる気候に暴露されて、十分なる食物もなく、凍えたる野獣のごとく荒野を流浪する蒙古民族の遊牧生活は、当時においてまたとなく見すぼらしき経済競争敗者の姿であった。彼等は自らの糊口の資を獲んがために、屢々血で血を洗う同族間の死闘を繰返さねばならなかった。一つの洞穴に迷い込みたる二匹の餓えたる獅子の争いは、いかに物凄きものであったか。成吉思汗と汪罕(ワンハン)、あるいは札木哈(ジャムハ)との闘争がすなわちそれであったのである。やがて勝ち残りたる獅子が勝利の咆哮に誇れば、他の百獣は争ってその足下に慴伏した。
勇敢無比なる蒙古の精鋭を麾下に収めたる成吉思汗の鉾先には当たるものことごとく挫けた。西方世界に久しく驍勇をもって鳴りしトルコ遊牧民族も、蒙古人の前には顔色なく、唯々としてこれ命に従って、先導の忠勤を抽(ぬき)んずるの外なかった。蒙古がトルコ族を比翼として振い立つや、まず彼等の視野に入りたるはサマルカンドを中心とする河間地方、すなわち東すれば中国に達すべく、南すればインドに入るべく、西すればペルシャに、ヨーロッパに至るべき、世界の十字路であったのである。」
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十字軍そして次に蒙古登場。