2021年05月19日

ニルヴァーナ

「ココロとカラダを超えてーエロス 心 死 神秘ー」頼藤和寛 ちくま文庫 1999年

病棟の聖者たち P167〜

「精神科医になってまもなく、私はある巨大な精神病院に勤務した。駆け出しに、む つかしい病棟は担当させられないということで、陳旧病棟と称する慢性患者を集めた ところを受け持たされた。そこは地獄というよりむしろ天国に近い印象を与える。ある いは生きた人間が最も涅槃(ニルヴァーナ)に近づいている場所であった。 精神分裂症を「病ん」で数十年、彼らは我々にみられる生臭さの大半を失っていた。 なるほどタバコは欲しがるが、別にもらわなくても一向に平気なのである。一万円札 に見向きもしない人もいた。男ばかりの寄せ集めてあるのに男色にも手淫も滅多とな い。一日中、壁にもたれて何を瞑想しているのか全く反応のない行者連中もいる。 これに比べると、教勢拡大に奔走し、寺の後継ぎに頭を悩ませ、お布施の多寡に一 喜一憂する坊主ども、きれいごとを立て板に水と喋々するか己の罪深さを自慢気に 強調する牧師神父のたぐいは、なんと我々、在俗の不信心者に近いことだろう。彼ら の魂胆は容易に見え透くが、陳旧病棟の阿羅漢たちの心事は全く人間(ジンカン)を 超えている。

彼らの死を何度か見た。実に幼な児のごとく死ぬ。もちろん苦しむが、たいていは自 分の苦痛にも半ば無関心である。決して「従容悠然」として逝くのではない。そうした 娑婆ッ気も落ちている。中には、死の直前にふと正気づいたように、それまで眼中に なかったような主治医に一言、「ありがとう」と言い残して瞑目する人もいる。 最初の頃は私もご多分にもれず、人格荒廃だの欠陥状態だのとのみ見ていたが、 そのうちこれこそ人間からあらゆる煩悩をこそぎ落とした姿かもしれぬ、と思いだし た。 なるほど非生産的である。社会になに一つ貢献しているように見えない。実際、薬 物を消費し、病院に入院費を与える以外、大して社会的役割はないかに思える。しか し、ある意味で人間の本然を体現しているようにも見えてくるのである。 彼らに欲と色気と活動を付加すれば、たちまち我々が、我々の同類が現れる。 結局、健常人とは金で釣れる、色で誘える、名利で操作しうる人種のことなのだ。社 会はこの人種の相互操作で成立してる。そこから抜け出した人間は、敬して遠ざける か蔑んで遠ざけられる。いずれも処置に負えぬからである。

もし一般人が、陳旧精神分裂病者を見ればたぶん「ああはなりたくないものだ」とか 「気の毒に」とかの感想を抱くだろう。しかしこの評言は全く対照的に可能である。つま り向う側から我々を同じように評することもできるのだ。一体に自称「正常人」がどの 程度のものか? ある見地に立てば、まさしく「ああはないたくない」、「気の毒な」シロ モノにも見えてくる。 我が身と家族を案じ、上司と部下に気を遣い、つきあいに心を砕き、立場と所有の 保全に汲々としている我々...

一方、彼らは「野の花」のごとく労さず紡がない。生産性有用性重視の近代社会に すれば不都合な存在である。にもかかわらず彼らは「ソロモンのように」働かずして 食っている。 彼らは多くを語らないが、その様子は無言のうちに(聞く耳もてば、の話だが)我々 に問いかけているーー一体、何をそうあくせく動きまわっているのかね、分裂病も仕 事中毒も死ねば同じじゃないか? 確かに現代医学は、その両者の差を見出していない。」
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悩みのない世界=極楽
posted by Fukutake at 07:56| 日記