「三島由紀夫全集 34 評論 X」 新潮社 1976年 柳田國男「遠野物語*」ー名著再發見 p400〜
「柳田氏の學問的良心は疑ひやうがないから、ここ*に収められた無 數の挿話は、ファクトとしての客觀性に於いて、間然とするところがな い。これがこの本のふしぎなところである。著者は採訪された話につい て何らの解釋を加へない。従つて、これはいはば、民俗學の原料集積所 であり、材木置き場である。しかしその材木の切り方、揃へ方、重ね 方、絶妙な熟練した木こりの手に成つたものである。データそのもので あるが、同時に文學だといふふしぎな事情が生ずる。すなはち、どの話 も、眞實性、信ぴょう性の保證はないのに、そのやうに語られたことは たしかであるから、語り口、語られ方、その恐怖の態様、その感受性、 それらすべてがファクトになるのである。ファクトである限りでは、學 問の對象である。しかし、これらの原材料は、一面から見れば、言葉以 外の何ものでもない。言葉以外に何らたよるべきものはない。遠野とい ふ山村が實存するのと同じ程度に、日本語といふものが實存し、傳承の 手段として用ひられるのが言葉のみであれば、すでに「文學」がそこ に、輕く塵を立て、紅い物をいささかひらめかせて、それを一村の高ノ 映してゐるのである。
さて私は、最近、吉本隆明氏の「共同幻想論」(河出書房新社)を読 んで、「遠野物語」の新しい讀み方を教へられた。氏はこの著書の據る べき原点を、「遠野物語」と「古事記」に二冊に限つてゐるのである。 近代の民間伝傳承と、古代のいはば壮麗化された民間傳承とを両端に据 ゑ、人間の「自己幻想」と「對幻想」と「共同幻想」の三つの柱を立て て、社會構成論の新體系を樹ててゐるのである。そこには又、 「ここまできて、わたしたちは人間の<死>とはなにかを心的に規定 してみせるることができる。人間の自己幻想(または對幻想)が極限の かたちで共同幻想に<侵略>された状態を<死>と呼ぶというふうに。 <死>の様式が文化空間のひとつの様式になつてあらわれるのはそのた めである」(一一三ページ) などといふ、きわめて鋭い創見が見られる。 さういへば、「遠野物語」には、無數の死がそつけなく語られてゐ る。民俗學はその發祥からして屍臭の漂ふ學問であつた。死と共同體を ぬきにして、傳承を語ることはできない。このことは、近代現代文學の 本質的孤立に深い衝撃を與へるのである。
しかし、私はやはり「遠野物語」を、いつまでも學問的素人として、一つの文學として玩味することのほうを選ぶであらう。ここには幾多の怖ろしい話が語られてゐる。これ以上はないほど簡潔に、眞實の刃物が無造作に抜き身で置かれてゐる。その一つの例は、第十一話であらう。嫁と折合ひの悪い母が息子に殺される話は、現代でも時折三面記事に散
見するから、それ自體、決して遠く忘れ去られた物語ではない。しかしメリメのやうな殘酷な簡潔さで描かれたこの第十一話は、人間の血縁とは何かといふ神話的問題についての、もつともリアリスティックな例證
になるであらう。」
(初出)讀賣新聞・昭和四十五年六月十二日「名著再發見」
2021年05月17日
三島由紀夫の遠野物語
posted by Fukutake at 08:07| 日記