「講孟余話ほか」 吉田松陰 松本三之介 田中彰 松永晶三 訳 中公クラシックス 2002年
留魂録 p443〜
(松蔭は、安政六年十月二十七日(一八五九年十一月二十一日)の朝、評定書において罪 状の申渡しがあり、その日の午前、江戸伝馬町の獄舎において死刑に処された。留魂録 は、処刑前日の十月二十六日の夕方書きあげられた。)
「身はたとひ武蔵の野辺に朽ちぬとも 留め置かまし大和魂 十月二十五日
私は、昨年以来、心の動きが幾度も変わっていちいち数えきれないほどである。しかし、 そのなかで、なによりも私がそうありたいと強く願い、あおぎ慕ったのは、あの趙の貫高で あり、楚の屈平であった。このことは諸君のよく知っていることである。 だから入江杉蔵が、送別の句のなかで、「燕や趙の国に高傑の士は多いが、貫高のごと き人物はほかにいなかった、荊楚の国にも深く国を憂えた人はいたが、屈平のごとき人物 はほかにいなかった」といっているのも、彼が、私の心を知っていて、そういう句をおくってく れたのである。 しかしながら、五月十一日に、江戸護送の知らせをうけてからは、いまひとつ、「誠」という 字を念頭におき、これを私の行動のよりどころとしようといろいろ考えてみた。ちょうどその ころ、杉蔵が、「死」の字を私におくり、死を覚悟することを説いた。 しかし、私はそれについては考えず、一枚の白の綿布を求めて、これに、『孟子』*の「誠 を尽くしても感動しない者は、いまだ一人もない」の句を書き、手拭いに縫いつけ、それを 持って江戸に来て、これを評定書のなかに留めおいた。これも、誠についての私の志をあ らわすためであった。
(中略)
以上を書きとめた後に、 心なることの種々(くさぐさ)かき置きぬ 思ひ残せることなかりけり 呼びだしの声まつ外に今の世に 待つべき事のなかりけるかな 討たれたる吾れをあはれと見ん人は 君を崇めて夷(えびす)払えよ
愚かなる吾れをも友とめづ人は わがとも友とめでよ人々
七たびも生きかへりつつ夷をぞ 攘(はら)はんこころ吾忘れめや。
十月二十六日夕暮に書す」
『孟子』* 「誠は天の道なり、誠を思うは人の道なり。至誠にして動かされざる者は未だこ れあらざるなり。誠ならずして未だ能く動かす者はあらざるなり」
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