2021年05月01日

イギリスのチャペック

「イギリスだより」 カレル・チャペック 飯島周 編訳 ちくま文庫 2007年

イギリスだより p29 「イギリスの公園

イギリスで一番美しいのは、おそらく樹木だろう。もちろん、牧草地も警官も美しい が、しかし、とにかく美しいのは、主として樹木、みごとに肩幅の広い、年輪を重ねた、 枝を四方に張りめぐらし、のびのびとした、おごそかな、とても大きい樹木である。ハ ンプトン・コート、リッチモンド・パーク、ウィンザー、その他、いろいろなところにある樹 木だ。 これらの樹木が、イギリスの保守主義、すなわちトーリーイズムに大きな影響を与え ている可能性がある。わたしの考えでは、これらの樹木が、貴族的本能、歴史主義、 保守性、関税障壁、ゴルフ、貴族たちで構成される上院、その他の特殊で古風なもの ごとを維持しているのである。 もしわたしが、鉄製バルコニー町とか灰色煉瓦町に住んでいるとしたら、多分熱烈 な労働党員になるだろう。 しかし、ハンプトン・コートの木の下に座って、おのずから感じたのは、古いものごと の価値、古い樹木の持つ崇高な使命、伝統の調和ある広がりを認めたいというあぶ なっかしい気分、そして多くの時代を通じて、みずからを維持するに足るだけの強さを 持つ、あらゆるものに対するある種の尊敬の念だった。 イギリスには、このようにとても古い樹木がたくさんあるように思われる。この国で出 会うほとんどすべてのもの、クラブにも、文学にも、家庭にも、何百年も経た、おごそ かでおそろしくがっちりした幹と葉が、なんとなく感じられる。 この国では、実際、けばけばしく新しいのものはなにも見当たらない。ただ地下鉄だ けが新しく、おそらくそのために、あんなにみっともないのだろう。 ところが、古い樹木や古いものごとそれ自身には、いたずらな小鬼、風変わりで冗 談好きのおばけが住んでいるものだ。 イギリス人自身の内にも小鬼がひそんでいる。イギリス人はかぎりなくまじめで、 どっしりとしていて、おごそかである。それが突然、体の中で何かがざわめき、なにか 奇怪なことを口にし、いたずら小鬼のユーモアがばらばらととび出したかと思うと、ふ たたび、古いなめし皮の椅子のように真面目くさった顔つきに戻っている。この人たち も、おそらく古い木でできているのだろう。 なぜかわからないが、このまじめくさったイギリスが、わたしには、これまで見てきた 国ぐにのうちで、いちばん、おとぎ話のようで、いちばんロマンチックな印象を与える。 これはおそらく、古い樹木のせいだろう。あるいはさにあらず、これは芝生のなせるわ ざかもしれない。というのは、この国では歩行者用の小径を通るかわりに、緑地の上 をじかに歩けるからだ。

われわれ他国の人間は、ただちゃんとした道や歩道の上だけを歩く。このことは、わ れわれの精神生活にきっと莫大な影響を与えているだろう。 ハンプトン・コートで、芝生をぶらぶら歩いている紳士を初めて見たとき、その人は、 山高帽をかぶってはいるが、おとぎ話に出てくる生き物だと思ったくらいだ。今に、角 のりっぱな牡鹿に乗ってキングストンの町へ出かけるか、ダンスをはじめるか、または 庭番がやってきてその人をひどく叱りつけるのではないかと、待っていた。でも、なに も起こらなかった。 そこで、とうとうわたしも勇気を出して、オークの木のところまで、芝生をよこぎって まっすぐに歩いていった。その木は、綺麗な芝生の園に立っている。わたしが歩いて も、さらになにごとも起こらなかった。しかし、この瞬間ほど、限りない自由を感じたこ とはない。それは、まことに異例なことだった。この国では、明らかに、人間を害獣と みなすことはないのである。」

(一九二四年五月から七月までイギリス周遊旅行をおこなった際のチャペックの観察 記)
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posted by Fukutake at 06:27| 日記