「遠野物語」 柳田国男 角川文庫
津波の記憶 九十九 p55〜
「土淵村*の助役北川清という人の家は字火石にあり。代々の山臥(やまぶし)にて祖父は正福院といひ、学者にて著作多く、村のために尽くしたる人なり。清の弟に福二といふ人は海岸の田の浜へ婿に行きたるが。先年の大海嘯(おおつなみ)に遭ひて妻と子とを失ひ、生き残りたる二人の子と共に元の屋敷の地に小屋を掛けて一年ばかりありき。夏の初めの月夜に便所に起き出でしが、遠く離れたる所にありて行く道も浪の打つ渚なり。霧の布きたる夜なりしが、その霧の中より男女二人の者近よるを見れば、女はまさしく亡くなりしわが妻なり。思はずその跡をつけて、はるばると船越村の方へ行く崎の洞のある所まで追い行き、名を呼びたるに、振り返りてにこと笑ひたり。男とは見ればこれも同じ里の者にて海嘯の難に死せし者なり。自分が婿に入りし以前に互いに深く心を通わせたりと聞きし男なり。今はこの人と夫婦になりてありといふに、子供は可愛くはないかといへば、女は少しく顔の色を変へて泣きたり。死したる人と物言ふとは思はれずして、悲しく情けなくなりたれば足元を見てありしに間に、男女は再び足早にそこを立ち退きて、小浦へ行く山陰を廻り見えずなりたり。追ひかけて見たりしがふと死したる者なりと心付き、夜明まで道中に立ちて考へ、朝になりて帰りたり。その後久しく煩ひたりといへり。」
土淵村* 現在の岩手県遠野市土淵町
「魂でもいいから、そばにいてー3・11後の霊体験を聞くー」 奥野修司 新潮文庫 令和二年
遠藤由理さんの体験 p79〜
「…津波で逝った(長男)の康生くんがそばにいると感じたのは、震災から二年経った頃だという。あの子は言葉は思い出すのに声が出てこない。幼稚園で撮ったビデオを見ればいいのに、怖いのと見れば悲しくなるのがわかっているから見ることもできない。康ちゃんどうしているんだろう、逢いたいなあ…、由理さんのそんな思いが頂点に達したときだった。
「二〇一三年のいつでしたか、暖かくなり始めた頃でしたね。あの日、私と中学生の娘と主人と、震災の翌年に生まれた次男の四人で食事をしていたんです。康ちゃんと離れて食べるのもなんだから、私が祭壇のほうを振り向いて、『康ちゃん、こっちで食べようね』そう声をかけて『いただきます』と行った途端、康ちゃんが大好きだったアンパンマンのハンドルがついたおもちゃの車が、いきなり点滅したかと思うと、ブーンって音をたてて動いたんです」
窓際にプラスチック製のその車が置かれていた。由理さんがスイッチを入れると「がガガガ、出発進行!」という機械の音声が聞こえる。もちろん勝手に動くことはありえない。
「『このおもちゃ、勝手に動くの?』どうやったってスイッチをオンにしないかぎり動かないのに動いたのです。そのときみんな『アッ、康ちゃんだ』と叫びました。『康ちゃん、こんなとこさ、遊んでんだ』
そう思ったらうれしく仕方がありません。それから何日か経ったある日、主人が次男をお風呂にいれていたときでした。『康ちゃん、もう一回でいいからママにおもちゃ動かして見せて』心の中でお願いしたんです。そしたらまた動いたんですよ『康ちゃん、ありがとう』こんな近い距離で私たちを見ているんだ。そう思ったとき、昔から私に『笑って、笑って』とひょうきんな顔をしたのを思い出しましてね、そうだ、私も笑わなきゃだめだ、頑張らなきゃだめだと思ったのです。
奥のキッチンから、長女が料理をしているのか、カタカタと音がする。由理さんは、すっかり冷たくなったお茶をすすった。」
(『ママ、笑って』より)
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一八九六(明治二十九)年六月十五日。三陸地方にマグニチュード8以上の大地震、津波が起こった。死者二万二千人
二〇一一(平成二十三)年三月十一日。東日本の沿岸部にマグニチュード9の地震・津波により甚大な被害が生じた。死者二万二千人