2021年04月23日

林彪の粛清

宮崎市定全集 17 −中国文明−」 岩波書店 1993年

林彪批判の歴史的背景 p390〜

 「林彪批判が行われるべき必然性は容易に理解できる。彼の失脚は一般人の間には、どんな理由によるものか、如何なる経過を辿ってか、全く知られる所なく、唐突に不慮の死を遂げて、しかも死後ほど経た後に漸く、それが反革命陰謀の結果であったことが知らされたのである。しかも林彪は内戦における最高殊勲者、文化大革命の最大功労者を経て、明らかに毛沢東の後継者に指名されたという赫赫たる経歴を持つ、党内第二位の大物であっただけに、彼の死がその悪行による当然の報いであったことを世人に周知せしめるには、それだけ大がかりな舞台装置を整えた上で説明会を開かなければならぬわけである。

 ただ一つ、どんなに説明されても判らない部分が残っている、というのは、それだけ重大な罪状があった林彪が、いよいよ最期を遂げてしまうまで、なぜ少しも外部へ知らされなかったという疑問である。…

 文化大革命における幹部批判の場合も同様である。毛沢東以下全員を批判の対象とすることが許されれば、言うことはいくらも出てくるであろう。言わせておけば批判は止めどもなく行われて無秩序に陥る危険がある。私が文革の始まった当初からの推測では、少しくも毛沢東、林彪、周恩来の三人は批判の対象から除外され、若し壁新聞などで攻撃が行われても、直ちに新聞のほうが撤去される定めになっていたに違いない。事実そういうことが確かに行われていたようである。
 このような免責特権が、実は林彪を破滅に導いた原因になったとも言える。林彪一派はこの機会を利用して、林彪を担いでその地位を不動のものとすると共に、自派の地位強化を計ったのである。これは取りも直さず、嘗ての劉少奇の歩んだ道であったのだ。今や林彪一派はその多くが軍人であったせいもあり、将来を洞察する明に欠け、前車の轍をそのまま追いかけるの愚を敢えてしたのである。

 評論家がなんと言おうと、中国共産党は独裁主義の体制である。そしてこの点においては、好むと好まざるとに拘らず、伝統的な中国の皇帝制度と一脈通ずるものがある。中国に皇帝制度が成立してから、それが次第に独裁に傾き、完全に近い独裁皇帝が出現したのは大体、宋代以後とされる。この独裁皇帝は全く只一人の皇帝が全権を独占していなければ満足せず、皇帝に次ぐ第二人者の存在を嫉視した。たとえそれが皇太子であろうとも、これが第二人者として皇帝の尊厳の分け前に与ることを欲しなかった。それが清朝に至って、近世的独裁皇帝の見本とされる雍正帝によって、皇太子という制度そのものが廃止されてしまった。これは第二人者を認めないという独裁皇帝制度の当然の帰結というべきであった。」

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反革命などという汚名を着せられた皇帝毛沢東による第二位者の排除。


posted by Fukutake at 13:38| 日記