2021年04月19日

生まれ変わり

「柳田國男全集 13」 ちくま文庫

七八 家と小児 p200〜

 「日本の生れ替わりの第二の特色と言ってよいのは、魂を若くするという思想であったことである。小児の生身玉はマブリともまたウブともウッッとも呼んでいたらしいが、これは年とった者に比べると、身を離れて行く危険の多かった代りに、また容易に次の生活に移ることもできて、出入ともにはなはだ敏活なように考えられていた。沖縄諸島では童墓(わらべばか)と称して、六歳以下で死んだ児のために、別に区劃した埋葬地ができていた。近畿、中国においても子三昧、または子墓という名があって、やはり成人とはやる処を異にしていた例が多い。葬りの式もいろいろの点でちがっていた。必ずしもまだ小さいから簡略にするというのではなく、佐渡ではかわった形の花籠を飾り、阿波の祖谷山では舟形の石を立てる。対馬の北部などでも仏像を碑の上半に彫刻して、それを彩色したものが小児の墓であった。関東、東北の田舎には、水子にはわざと墓を設けず、家の牀下に埋めるものがもとは多かった。若葉の魂ということを巫女などはいったそうだが、それはただ穢れがないというだけではなしに、若葉の魂は貴重だから、早くふたたびこの世の光に逢わせるように、なるべく近い処に休めておいて、出て来やすいようにしようという趣意が加わっていた。青森県の東部一帯では、小さな児の埋葬には魚を持たせた。家によっては紫色の着物を着せ、口にごまめを咬えさせたとさえ伝えられる。ちょうど前掲の立願ほどきとは反対に、生臭物によって仏道の支配を防ごうとしたものらしく、七歳までは子供は神だという諺が、今もほぼ全国に行われているのと、何か関係があることのように思われる、津軽の方では小児の墓の上を、若い女に頼んで踏んでもらう風習もある。魚を持たせてやる南部の方の慣行とともに、いずれも生まれ替わりを早くするためだということを、まだ土地の人たちは意識しているのである。

 この再生が遠い昔から、くり返されていたものとすれば、若い魂というものはあり得ない道理であるが、これは一旦の宿り処によって、魂自らの生活力が若やぎ健やかになるものと、考えていた結果と推測せられる。七十八十の長い生涯を、働き通して疲れ切った魂よりも、若い盛りの肉体に宿ったものの方が、この世においても大きな艱苦に堪え、また強烈な意思を貫き透すことができる。それがまだ十分にその力を発揮せぬうちに、にわかに身を去れば残りの物はいずこへ行くとするか。こういうこともきっと考えられたものと思う。時代が若返るということは、若い人々の多く出て働くことであった。若さを美徳としまた美称とした理由は、日本の古い歴史ではかなりはっきりとしている。おそらくが長寿の老いてくたびれた魂も、できるだけ長く休んでふたたびまた、溌剌たる肉体に宿ろうと念じたことであろう。その期限というものがとぶらい上げ、すなわち三十三年の梢附塔婆(うれつきとうば)が立てられる時と、昔の人たちは想像していたのではなかったかと思う。」

----
生まれ替わりの民間伝承
posted by Fukutake at 08:32| 日記