「ベーコン」 世界の名著25 責任編集 福原麟太郎 中央公論社
随筆集より「身だしなみについて」 p218〜
「ただ、まじめだけという人は、ひどく、たくさんのいろいろの特性をもっている必要があるだろう。たとえば、引きたてるための下敷きなしにしておく宝石は、非常にりっぱなものである必要があるのと同じである。しかし、人がよく注意するなら、人に対する賞賛や喝采は、ものを得ることやもうけることと同じである。というのは「少しずつもうけが重い財布になる」という諺は、真実である。少しずつのもうけは、しじゅう起こる。しかし大きなのは、ときたまにしか起こらないからである。だから、真実だといえるのだが、小さな問題が、大きな喝采を得るのはしじゅう起こっており、注意を惹くからである。ところが、何か大きな徳性の機会は、お祭りのときといっていいくらいしか、めったに起こるものではないのである。だから、人の名声を非常に増すことになるものであり、絶えることのない推薦状みたいなものであるといえるのが、よい身だしなみをもっているということなのである。
それらを身につけるのには、それらを、ばかにしないことでも、十分といえるくらいである。というのは、そうすれば、他人の内にあるそういうものを人は注意して見るようになるだろう。そして他のことは自分の思うとおりにやるようにさせればよい。というのは、あまり骨を折って、それらをあらわそうとすれば、その品のよさを失うことになるだろう。それには、自然で気どりのないことが大切なのである。ある人々の動作の中には、韻文の場合の一つ一つの綴りが韻律をふんでいるみたいなものもある。心を小さな観察に向けすぎる人間が、どうして大きな問題をつかむことができようか。…
一般に他人のいうことに賛成しながら、しかし、自分自身のことも少しつけ加えるというのが、心がまえとしてよい。たとえば、相手の意見を認めるのであれば、何か同時にちがったことをいうのである。相手の申し出に従うなら、条件をつけるようにするのである。相手の忠告をいれるなら、さらにそれ以上の理屈を述べてのうえでそうするのである。人は、ほめるときに、あまり完全になりすぎないように注意する必要がある。というのは、それらの人は、他の点でも、いくら有能であるにしても、ねたむ者は、そんなふうに、ほめすぎる性質が、その人たちにあるというようになるにきまっている。…
賢明な人は、機会を見つけるというより、むしろつくるものである。人の行動は着物と同じものでありたい。あまりにきゅうくつすぎたり、きちょうめんすぎるのでなく、自由で運動ができ。動作の楽なものがよい。」
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他人に対しては、少し親しみやすくしながら、威厳をもて。