2021年04月03日

向こう側からの人生観

「他界からのまなざし −臨生の思想−」古東哲明 
  講談社選書・メチエ 2005年

(その1) 現世の至高性 p40〜

 「「不死の思想は、この世の幸せを取り逃がしたひとの考えること。」
 そうゲーテはサラッと言う(『ゲーテとの対話』エッカーマン)。とても根本的なことが語られているように思う。少しこだわってみよう。

 ここで「不死の思想」とは、文脈からみて、遠望他界観を意味する。この世を隔絶した遥かかなたに、永生他界や死後の生命を構想し、この世での滅びや死の過酷な事実を抹消しようとする他界観のことである。この一文の意味はしたがって、<この世に在ることとそのことの至高性の不覚が、後世の生の永遠をねがう遠望他界観の発想の根本理由であり、その結果、あの世やこの世への妄執をうみ、ひとを混迷の淵へたたきこむ>というほどの意味となる。だから逆にいえば、
<この世に在ることの至高性に覚醒すれば、生死の去就をめぐるぼくたち人間の、暗い疑念や不安や執念は解消する>と言っていることになる。人生のほんとうの味(しあわせ)を知れば、生死をめぐる難問は解消するというわけだ。
 なぜかしらぬが、たまたまぼくたちはこの世に生まれた。そして、しばしの間とはいえ生きて死ぬ。死んでどうなるか、それはわからない。が、そんな人生を与えられたということは、気づいてみれば、じつはとほうもない至高のご馳走を与えられたに等しい。だが、ふつうそんな風に考えない。適度においしいと想う人はいようが、至高のご馳走を与えられたなどとは感じない。それに、生きているあいだは生活に忙しく、この世や生そのものの味を味わうなんて発想も、まずはわかない。

 そんな意味での<不覚>が常態化しているため、いざこの世この生について深刻に問いつめる機会があると、ほんとうの生の味など知らないから、結局、この世は無意味、人生ははかなく虚しいなどという、聞いたような先入見で即断。さらに来るべき死を想い重ね、虚しさの想いはつのるばかり。その過酷な死の事実を帳消しにするため、はかなく短いこの世の生とは別の、とこしえなる世界や生命を希求し、「不死の思想」を生みだした。そうゲーテはいうのである。」

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生を至高のご馳走として味わえるかどうか。まず生きていることへの感謝。美しい世の中を二度とないものとして生きる幸せを味わい尽くす気持ちを持とう。
posted by Fukutake at 08:10| 日記