2020年12月30日

漢字

「日本と日本人」 貝塚茂樹 角川文庫 1974年

日本語はこのままでいいか p222〜
 「文部省がきめた「新しい送りがな」にたいして文学者たちが主動し、一部の財界人をも混えて反対運動の口火が切られた。多くの文士は当用漢字、新しい現代かなづかいの制定にたいしても、賛成されなかった。自分の感情と感覚を正確に表現する言葉と文章を求めて、毎日血のにじむような苦心をつづけられていられる文学者にとって、一八五〇字の漢字のわくの設定と、今までなじんできたかなづかいの変革は、表現の可能性に大きな制約を与えるもので、決して歓迎されなかったのは当然といえば当然であった。多少は文筆の仕事に関係しているものとして、文士諸君の気持ちはある程度まで同感できた。
 現在この文章を書いているときでも、自分の感情をぴたりといい現す言葉を見つけ出すのにかなりの苦労をしている。そして当用漢字の制限にもずいぶん重荷を感じている。文士のかたがたは国語の細かい差異、陰影、ニュアンスのちがいについて、わたしなどより十倍も二十倍も鋭敏な感覚を有しておられるにちがいない。美しい日本語を守り育てていくことに私などよりずっと強い関心をもっていられるはずである。
 反対者の有力な代表者である福田恆存氏などからすると、ここでニュアンスという英語をいれることを唾棄すべき陋習とされるにちがいない。陋習の方は悪い習慣と当用の漢字でいいかえてもまだかまわないが、唾棄の方は「ほんとうにいやらしい」とか、いいかえることはできない。この激しい嫌悪の感情は、こういう間の抜けた言葉 −−それを称してやまと言葉というのかも知れないが −−ではとても的確に表現されうべしともおぼえぬ。
 
当用漢字の制限、新かなを弁護する学者たちは概していわゆる進歩的文化人で、合理主義者であり、また楽天主義者であった。当用漢字の制限のなかで、新かなによって、十分に物事を表現できるし、そのうちに新しい表現の可能性が現実に開拓されていくにちがいないと主張した。現在使われている日本語の姿を静かに眺めてみると、どうも進歩主義者のいうほど楽観すべき事態とも思えぬ。
 文士のかたがたは新かなに絶対反対されはしたものの、マスコミの威力におされ次第に後退し、妥協して、ついに大勢に順応されていった。文学者の書く文章も目に見えぬうちに次第に変化していきつつあるのである。」

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日本語を朝鮮語にしたい左翼文化人
posted by Fukutake at 10:38| 日記